425.The Internet of Things (2004/12/11)

日経サイエンス2005年1月号に、「逆転の発想 インターネットゼロ」という記事が掲載されています。SCIENTIFIC AMERICANの2004年10月号に掲載された記事の翻訳です。少しそれらの雑誌の要約部分を読んでみましょう。


家庭に多くの電気機器が無秩序に溢れかえっているが、バルセロナアントニオ・ガウディーの建築と比較して、もっと有機的に結びつける必要があると説いています。


100年ほど前、バルセロナでアントニオ・ガウディーが建築したときには、造形美構造計算が継ぎ目なく統一された設計の中に盛り込まれており、単に装飾的な外観であるばかりでなく、同時に応力計算された構造でもあったそうです。


しかし、建物内の電気設備であるスイッチや電器ソケット、サーモスタットは完成した建物に後付けされされ、機能は埋め込まれてしまった配線によって限られてしまったのです。


複雑な装置やコンピューターはさらに後になって設置されたため、結果的に相当数の電気機器が建物内にあるにも関わらず、それらは全く有機的に結合されることなく、それぞれが全く違った方向を向いて設置されていったと説明しています。


これらの不自由さは、建築の経済性、エネルギーの効率性、建築の表現、そして結局は生活のクオリティーを犠牲にしてきたと言っています。


USの建築産業の規模は1兆ドルに及びなすが、そのうちの数十億ドルは配線を引き回しや、そのやり直しの為に費やされているそうです。


ここ数年に渡って「スマート・ホーム」プロジェクトが、「インテリジェント・ビルディング・インフラストラクチャー」を求めてさまよっています。電気設備は建築時に固定されてしまうものではなく、使用者によって流動的に再配置されなければならないとしています。


インターネットは誕生から30年間に7桁に及ぶ進歩を遂げた間にも、ほとんどその姿を変えることがなかったのは、技術に依存する要因を仕様から排除したためだったとしています。


同じ考え方で建物内に散らばって存在している電気機器を相互接続するためには、最も基本的な電球と、現在インターネットの接続対象となっているサーバーの、似ているところと異なるところをはっきりさせる必要があるとしています。


この考え方は、パームと携帯電話や手帳の似ているところと異なるところを発見する事によって、パームのあるべき役割を確認するのに役立つかも知れません。3つの情報管理の方法が有機的に補完しあうことによって、新しい価値が生み出されることもあり得るのでしょうか?


424.パームが甦る日2: 手帳愛用者 (2004/12/08)

少し前から気になっていたのですが、帰りの電車の駅にある本屋に来年の手帳が並ぶようになって、1ヵ月半近く経ちました。


当初はほとんどお客さんがその前を素通りしていたので、手帳も最近はあまり売れていないのかと思っていたのですが、今月に入ってからは日増しに手帳を眺めるお客さんが増え、今週あたりからは常に何人かのお客さんが物色しています。


いったんパームを使い出した者から見れば原始的でさえある手帳ですが、手帳を使い慣れた者からすれば手放すことができないのでしょう。パームのPIMが便利だと いっても、長年愛用した手帳から乗り換えるには魅力が乏しいのかも知れません。


またパームを初めとするPDAが圧倒的に手帳に勝っているのかと言うと、どうもそうではなさそうに思えるのです。


昨日、帰りの電車の中に手帳の広告があることに気付きました。「能率手帳」で す。本屋に並べてあったあの手帳です。


その広告によると、1949年に発売されて以来55年間使い続けられており、現在では120種以上のラインアップによって毎年1000万冊を発行しているとの事。発行部数では信用できないと思って能率手帳のホームページを見てみると、販売が1000万冊であるとか書かれているではないですか!


能率手帳一ブランドだけで1000万冊なら、世の中の手帳全部をあわせると数千万冊になるに違いありません。PIM機能を持った携帯電話がこんなに普及していて
も、紙の手帳がそれとは別にこれほど利用され続けているのです。


これでは、携帯電話にPIM機能が搭載されたために、PDAが普及しなかったという理由は成り立ちません。PDAは手帳に勝てなかっただけなのです。


これらの手帳のユーザーにパームのすばらしさを積極的に紹介することができるならば、またパームが革新的なPIM機能を搭載して紙の手帳を凌駕することができるならば、全部とは行かないまでもかなりの手帳ユーザーを取り込むことができるのではないでしょうか?


ここで疑問を感じる方がいらっしゃるかもしれません。「パームは原始的な手帳に比べて便利なのは間違いないし、もう既に多くの手帳ユーザーがPDAに乗り変えて
いるはずだ」と。


それはその通りだと思います。一般的に電子化された機器が、それまでの方法に比べて進歩的であることはほぼ間違いないでしょう。


しかし、それが使いやすいかどうかと言う問題になると、使い慣れた手帳にはその人そ れぞれが培ったノウハウが秘められていて、意外と現在のパームのPIM機能では歯が立たないこともあるのではないかと思うのです。ひょっとして、今のパームは、手帳に出来ることをただ単に電子化しているだけなのかも知れません。


電子機器の好きな人には電子化するだけで十分魅力的に見えても、そうでない人にとってはただ面倒臭いものに見えるだけかもしれません。


では、これまで手帳を愛用してきた人にパームを魅力的に見せるには、どのようにしたら良いのでしょうか?

423.OECD学習到達度調査 (2004/12/07)

2000年から始められた、PISAと呼ばれる各国の15歳の生徒(義務教育終了時)を対象とした学習到達度調査は、3年ごとに行われるそうです。41カ国が参加した2003年の調査結果が発表されました。


日本からは約4700人が参加したそうです。点数はOECD加盟国の平均得点が500点になり、標準偏差も100点になるように換算されているそうです。


読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシーの3分野がありますが、各実施年によって重点的に調べる分野が決まっており、2000年は読解力、2003年は数学的リテラシー、2006年は科学的リテラシーが重点分野になっているそうです。調査の時間は2時間で、重点分野には調査の3分の2の時間を費やすそうです。


さて、日本の成績は前回よりレベルが下がったそうですが、特に読解力の低下が顕著だったそうです。新聞などの報道では日本の成績を平均点だけで比較していることが多いのですが、文部科学省のサイトを見ているといろいろ違った見方が出来ます。


例えば、日本の平均点がそれ程高くない調査項目であっても、レベル6(習熟度が一番高い生徒)の割合ではトップに匹敵する成績を残していたり、あるいは数学的リテラシーの中の不確実性ではオランダやニュージーランドに優秀な生徒が多いなど、それぞれの国で特徴があることがよく分かります。


日本の成績が悪かったと言われている読解力では、フィンランドが圧倒的に優れていて、韓国、カナダと続くそうです。日本は、中位以上の生徒が60%を占めてはいるものの、レベル1未満の数がOECD平均を上回っており、生徒間で格差が開いてきている事が懸念されます。


さてこの発表を受けて、文化相の対談が共同通信に掲載されていたのですが、「勉強しなくなったために、学力が低下傾向にある事を認識すべきである。学力向上策に徹底的に取り組む姿勢を示した。」とされています。


そこまでで止めておけば良かったのですが、その後、「『僕は勉強したいから塾に行きたい』と子どもの方から親にお願いするぐらいでないといけない」と文化相が言ったとか。


文化相自ら、「に行かなければ勉強が出来ない」と言ってしまって良いのでしょうか?これでは、日航の社長が飛行機が遅れたことの言い訳に、「それなら新幹線に乗れば良い」と言っているようなものです。


これは、既に日本の小中学校に期待してはいけないと言うことなのでしょうか?(その通りなのかもしれません。)

422.どうして学習塾が流行るのか? (2004/12/06)

久しぶりの教育問題に関する話題です。実は、教育問題を扱うと反響が大きいので躊躇するのですが、今の小学校の現状を知っていただきたいために、敢えて書いてみようと思います。


世の中では、受験戦争が良くない」だとか、に行く必要はない」だとか言われる方が大勢いらっしゃいますが、それは昔の自分の時代と今が同じだと信じているからこそ言えること。この現状を見て、将来の日本を憂いなくして想像できる人がいかほどいらっしゃることでしょうか。


今日は小学校の参観日。4年生の子どもたちも張り切っています。今日の授業は理科。早速授業を覗いてみましょう。


秋も深まってきましたので、子どもたちは校庭から落ち葉を拾ってきたようです。先生はたくさんの落ち葉を、教室のいくつかに分かれたグループそれぞれに、均等に分配していらっしゃいます。なるほど、落ち葉の特徴を調べて植物による違いを勉強するのでしょう。子どもたちも机をグループで寄せ合って、その真ん中に落ち葉を積み上げています。


先生は子どもたちに、1人ずつ落ち葉を並べてグループ中の誰かの顔を作ってみましょうと促しています。なるほど、落ち葉の色や形の特徴を掴むためには良い方法です。子どもたちはめいめい好きな色や形の落ち葉を使いながら、グループの中の誰かの顔の形を作っていきます。


しばらく自由な時間が過ぎた後、先生はグループごとに発表の時間を与えていきます。子どもたちは順番に自分が落ち葉で作った顔の絵をみんなに見せて、それが一体誰の顔であるのか、他の児童たちに質問して当てさせていきます。


子どもたちは、本当に楽しそうにやり合っています。しかし、そろそろ落ち葉の特徴は分かった頃だから、植物の勉強が始まるだろうと思っていても、いっこうに始まりません。そうこうしているうちに「キーンコーンカーンコーン」


あれ、理科の授業ではなかったの?図画の時間だったっけ?


では気を取り直して隣の教室を覗いてみましょう。隣のクラスは社会の授業です。今日は、「消火器」のお勉強のようです。なるほど、消火器の役割を勉強して、どのように社会に役立っているか、また消防士さんの仕事がどのようなものであるかを勉強するのでしょう。


先生は、教壇の上に本物の消火器を置きます。先生は児童たちに、まず消火器がどのような形をしているか絵に描いてみるように指示します。子どもたちは思い思いにスケッチをしています。


しばらくの時間の後、先生は児童一人一人に描いた消火器の絵を、全員の前で説明させていきます。子どもたちは、自分が何に注目して絵に描いたかを説明していきます。


全員の説明が終わったところで「キーンコーンカーンコーン」


あれ、社会の授業ではなかったの?図画の時間だったっけ?


しばらく前から人間の個性を伸ばす教育の必要性が叫ばれていたのは知っていますが、客観性で判断することを忘れてはいけないのではないでしょうか?何もすべての授業を個性を重視するあまり、図画にしなくてもよいのではないでしょうか?


参観日でない普段の授業は、もう少し普通の授業だったのかも知れません。参観日だからこそ、答えがはっきりしないような授業をしたのかも知れません。また、日本の中でもこの地域が特殊なのかも知れません。


しかし、この参観日の後、それまで塾なんて必要ないと言っていた保護者の間で、「どっか良い学習塾知らない?」と言う会話が密かに蔓延していたのは、紛れもない事実だったのです。


421.グーテンベルクとデジタル家電 (2004/12/04)

グーテンベルクと言えば、1400年代に印刷機を発明した人として知られています。印刷機はこれまでの人類の発明品の中でも、最も重要なもののひとつとしてあげられています。


印刷機が重要であった理由は、今のインターネットに似ているかもしれません。それまでは手書きの文字で記録されたものがあったとしても、広く世の中に広めるためにはさらに手書きで写していかなければならず、写されたものが正確であるかどうかも定かではありませんし、書き写すには多大な労力と時間がかかっていたのです。


それが印刷機の発明のおかげで、正確なコピーが迅速に大量に作ることが出来るようになったわけですから、文化的な革命であったと言えるでしょう。印刷機が発明された後のベストセラーキリスト教の聖書であったと言うことから、宗教的にも大きな影響を与えた事は容易に想像することが出来ます。


印刷技術は、最初は鉛の活字の手組による組版から始まりました。と言うのが同じ品質のプリントを大量に作ることの出来るオリジナルになるわけですが、これを作るためには今の技術でも多くのプロセスを踏まなければなりません。そして最終的に出来た版を使うことが出来る権利が版権であり、版権を持っているものにしか複製を作ることが出来ないのです。


さて、デジタル家電の話しに移る前に、ソニーがベータ方式のビデををUSに売り込んでいった記録を綴った、日経ビジネスに連載されていた「映像メディアの世紀」(佐藤正明著)に触れておかなければならないでしょう。


「タイムシフティングマシーン」、つまり見たい時に番組を見ることが出来ない人に、放送時間をシフトする事が出来る機械と言うふれ込みで、ソニーの故盛田氏はUSで同じ規格を採用してくれる企業を募ったと言います。


しかし、USでの反応は、録画する事によって著作権が侵害される可能性があることに集中したそうです。勿論それまでにもビデオ録画機は放送局などでは普及していましたが、映像を商品として供給する側と消費する側では、同じ機械を使っても意味が異なっていたのです。


ではデジタル家電で一体何が起ころうとしているのか?オリジナルと同じものを、誰もが大量に作ることが出来るようになってしまう可能性があるのです。これでは本当のオリジナルを持っている人はたまりません。


このような議論では、しばしば個人が楽しむ分には問題がないのだし、個人は大量にコピーをしたりはしないから大きな問題ではないと言う意見が出てきます。確かに世の中が善人ばかりならそれで良いのですが、悪人も少なからずいる現状では、そうは言ってはおれないのが現実なのでしょう。


もし、トナーだけで画像を再現する今のコピーマシンが進化して、印鑑が押されていれば印肉で、鉛筆で書いた文字なら鉛筆の粉で再現できるコピーマシンが出来たなら、オリジナルの書類とコピーの書類の境界がなくなってしまうかも知れません。その時に「イチロー」の直筆のサインの値段が今と同じであるという保証はありません。


ちんさんのネットラジオ「エアーボンチ」でも著作権やビジネスモデルで大きく揺れ動いていますが、テレビ放送もデジタル配信が進んでくれば、同様の問題が噴出することは目に見えてきます。


デジタル家電の出現と普及によって、多くのメディアで「ビジネスモデルのリストラクチャリング」が始まろうとしています。その時流にのって成長する企業もあるでしょうし、旧来のビジネスモデルから抜けきらずに衰退する企業もあるかもしれません。


グーテンベルクが作り出したと言う概念が、500年以上たった今、消え去ろうとしているのかも知れません。