220.いいメカはシンプル! (2003/10/12)

10年ぐらい前までは、全自動コンパクトカメラのことを、「BCカメラ」と呼んでいました。(注釈: 現在ではこの表現は相応しくないと言うことで、各カメラ会社はコンパクトカメラで統一しているようです。)


観光地でウロウロしていて、観光客に「スミマセーン。写真を撮っていただけますか?」と呼び止められて、「BCですから上の大きなボタンを押すだけですから!」と言われた経験はどなたでもあると思います。長い間、BCカメラと言う呼び方を一般的に使っていましたが、使わなくなったもう一つの理由があります。


BCカメラは、シャッター以外の操作を不要にして簡単に撮影が出来る様になっています。昔は確かに、操作を簡単にしただけのシンプルなカメラでした。つまりカメラそのものがBCであった訳です。


ところが、BCカメラも年々自動化が進み、露出やピント合わせ、ストロボの自動発光やフィルム装填など、全てをこなすようになって人々は気づいたのです。BCカメラがBCなのではなくて、使う人間がBCなのだと!BCカメラは、逆に賢いカメラだと気づいたのです。


そうなると、人に写真を撮って貰おうと頼む場合、「BCカメラですからよろしく」では、あなたがBCであると言っているようなものですから、失礼してしまいます。そんなこんなでBCカメラという呼び方は使われなくなっていったのです。


よく、機能をてんこ盛りにし過ぎて、操作が複雑になってしまっている家電があります。しかし、使い手の立場に立って企画・設計されたものは、機能が複雑でも操作はシンプルなものがあったりします。


先ほどのBCカメラの場合でも、シャッターを押すだけの操作で、測光・測距・ストロボ発光など数十のシーケンスが自動的に完了するのです。複雑な動作を指一本の操作でこなすところに、シンプルな操作を実現する賢さを持ち合わせています。


シンプルなパームを考える時も、同じように考えることが出来るのではないでしょうか?パームに機能を追加していっても、操作が複雑にならず直感的で分かりやすければ、シンプルであると感じるのではないでしょうか?


昔、自動車の排気ガス対策の技術開発が盛んだった頃、富士重工のテレビCMで「いいメカははシンプル!」と言うコピーがありました。同じ機能ならシンプルな方が良いと言うことです。ハードウェアもソフトウェアも、シンプルな方が故障も少なく拡張性もあります。


「シンプル」「スマート」と言い換えることが出来るかもしれません。


Palm’s Simple is Smart!!

219.ニッポニア・ニッポン (2003/10/10)


桃花鳥が七羽に減ってしまったと新聞の片隅に

 写りの良くない写真を添えた記事がある

 ニッポニア・ニッポンという名の美しい鳥がたぶん

 僕等の生きてるうちにこの世から姿を消してゆく




さだまさし 前夜(桃花鳥)より

日本産のトキの最後の1羽がついに死んだそうです。日本の野生絶滅として登録されていた、トキが本当に全滅したことになります。(野生絶滅は、野生には存在せず絶滅危惧種よりさらに悪い状態のものを指すようです。)


大正時代までは日本中にいたそうですが桃花鳥と呼ばれるようにピンク色の羽に高値が付いて乱獲され、絶滅に至ったようです。保護のもとに、繁殖を試みれば容易に数を戻せると考えたが、結果は人間の思うようにならなかったと言うことでしょう。


我々は、時として安易な行動に出ます。何とかなると思っている内は良いのですが、何とかなるかどうかはやってみなければ分からないことも多いのです。今現在でも、多くの絶滅危惧種がいます。


ニッポニア・ニッポンだけの話ではありません。人類も、全体的に見れば危機的状態にあると言えます。エイズの感染者の増加や、人口の増加飢餓地球の砂漠化等、既に手遅れになっているかもしれません。


約20年前にトキが7羽になってから、繁殖の努力の甲斐もなく時が過ぎ、最後のトキの寿命が尽きたのです。人類の知恵は、ことトキに関しては無力だったようです。


人類が、自ら絶滅危惧種に登録する様な事にならないことを、願うしかありません。

218.アリガタヤ、アリガタヤ (2003/10/10)

日本人は、英語の発音が下手だと言われて来ました。分かりやすい例として、"What time is it now?"が良く使われます。日本人が一生懸命正確に発音しようとしても通じないときは、いっその事「掘った芋いじるな!」と言ったほうが通じることがあると言われたりもします。


そもそも、海外で"Waht time is it now"なんて聞くことはほとんどありませんが、「掘った芋いじるな!」と言うのにもそこそこ発音のコツがありそうですから、素直に英語の発音を練習するほうが良さそうです。


ところで、それまでの日本の英語教育で耳にすることがなかったような発音の表現に、USに行くとしばしば出くわす事があります。そのような発音は、決まってあるシチュエーションで登場し、気になってくると良く出くわすのです。しかし、どういう意味かと聞くタイミングが難しく、いつまでも分からないままになってしまいます。


その中で、私には「アリガタヤ」と聞こえる表現がありました。ご存知の方は「ははーん」と気づかれたでしょうが、私はこの言葉の意味を知るまでに、数ヶ月過ごしてしまいました。


仕事の打ち合わせなどをする時に、最後のほうで相槌を打つように、「アリガタヤ、アリガタヤ」を連発します。しかも、この表現を使うのは、どちらかと言うと威勢の良いタイプの人に限られます。


しばらく経って、同僚に何と言っていて何の意味なのか聞いてみました。要は、"I got ya!"で、"ya"は"you"のこと。「私は、あなたを理解した」と言う意味だと教えてくれました。


たいていは、最初良く分からなかったことが、その後で分かった場合に良く出てくるように思います。「何だ、そういう意味だったのか。今分かったよ」みたいな感じでしょうか。


実際は、「アリガタヤ」ではなく、「アイガッチャ」に聞こえますが、日本語が懐かしくなってきた頃に聞くと、「アリガタヤ」に聞こえてしまうから不思議です(ローレライの人魚か?)。


ただ、少しラフな感じがしますし(実際向こうでもラフな人しか使わない)、日本人が使う場面を考えずに言ってしまうと問題があるかもしれません。まあ、"I understand."辺りを使っていたほうが無難なのでしょうね。

217.小数点記号論争 (2003/10/10)

asahi.comに、“「,」か「.」か、小数点記号論争にピリオド?”と言う記事が掲載されています。数字で小数点を書く場合、ピリオド「.」にするか、カンマ「,」にするか、国際的に統一しようという国際度量衡総会が、パリで13日から開催されると言うのです。英語圏の国ではピリオドを使い、それ以外の国ではコンマを用いるそうですが、日本では英語式にピリオドを使っています。


パームの環境設定書式を選択すると、国ごとに違った表記を使っていることが分かります。確かにピリオドではなく、コンマを使っている国が多いことに気づきます。


ただ日本でも、「1.23」を読み上げるときは「1コンマ23」と言いますから、それほどピリオドかコンマか意識してこなかったのではないでしょうか?しかし、急に本当のコンマを使うようになったら混乱は避けられないと思います。特に、位取りの記号は、小数点がピリオドならコンマを、小数点がコンマならピリオドを使いますから、混乱を招きます。

数字の大きさが予め見当がつく場合はいいかもしれませんが、1.234が1,234になってしまうと、解釈に悩みます。新聞の統計などで、下のほうに「単位百万円」などと注釈があるとお手上げです。


今統一しようとしているのは、英語表記の場合のみで、その他の言語の場合は統一する必要はないとのことですが、言葉によって数字の表記を変えるのもややこしいですから、いずれは国際標準となると予想されているようです。各国はこれまで採用してきた自国の表記が、国際的にも標準になるように期待するわけですが、勢力が均衡しておりどちらが採用されるかは微妙なところだそうです。


ソフトウェアで数字を読み取る場合、小数点と位取りの両方を使った数字の場合(123、456.7 と 123.456、7)は、小数点として何を使っているかがわかりますが、一方しかない場合(1.234 と 1,234)は雰囲気で判断するしかありません。新しく標準が制定されても、過渡期には両方使われるでしょうから、ソフトウェア側で判断できるようにしなければならないでしょう。


また海外のニュースや文献を日本語に翻訳している人にとっては、小数点の読み間違いは許されないでしょう。


もしコンマに統一されて、英語表示の場合はコンマを使わなければならなくなっても、国内で使うだけならピリオドが小数点として使われ続けるでしょうから、それほど大きな不便を感じることはないかも知れません。さて、どちらに軍配が上がりますか、注目してみたいと思います。

216.お役所仕事ー2題 (2003/10/08)

NIKKEI NETの社説・春秋に、日本のお役所仕事に関する問題点の指摘が、同じ日に2つ掲載されています。一つは「社説2 薬のテレビ電話販売認めよ」で、厚生労働省の薬事法に関する問題点です。


薬剤師が帰宅した店舗に訪れた客に、テレビ電話を使って遠隔地にいる薬剤師が薬を選択し、資格のない店員が販売することに待ったをかけたものです。


その理由が、テレビ電話だと泥酔した客に薬を売った場合、用量を間違えて危険だと言うのです。しかし、酔った客に薬を売らないと言う決まりがあったとは思えませんし、薬剤師がいても同じことのように思います。


実際、薬剤師の常駐が求められていても、販売時には不在のケースが2割もあったと言う調査があるそうですから、薬剤師の常駐が義務化されていても既に形骸化しており、しいては薬剤師の不要論まで出て来るのは当然でしょう。


そもそも、印刷されたパッケージに入った一般的に常備薬といわれているものは、買ってきた時に飲むとは限らず、家庭の救急箱に常備されているものです。いちいち症状を薬剤師に見せてから服用する訳ではありません。


つまり、そのつど医師の処方箋によって処方される薬以外は、スーパーの棚から自由に取ってきて家庭で常備しておくもので、薬剤師が販売の独占をする必要性はありません。


これは、薬剤師の既得権を守るために、国民が犠牲になっている一例です。


次は、「春秋」で書かれているゆとり教育に関してです。文部科学省が進める新学習指導要領の問題点を指摘しています。


どうも、役所の仕事は、原因結果について考察しないで、なんとなくこれまでと違ったことを策定すればよいと言う感じがします。役所の仕事を無理やり作っているだけで、何ら結果に結びつかず、またしばらくして別のことを考え出す。まったくサイエンスの欠片もありません。


日本の教育レベルが高いと言われたこともありましたが、今や産業のグローバル化が進み、日本の企業だからと言って日本人を雇う必要もありません。世界に伍していける人材を輩出しなければ、グローバルな雇用市場で日本人が取り残されてしまうでしょう。人材の育成が文部科学省の役割であると言うことが分かっているのでしょうか?


日本のお役所仕事の問題は、今に始まったことではありません。近い内にシリーズでご紹介してみたいと思います。