170.2000円札普及作戦(最後のチャンス) (2003/08/14)

今更どうでも良いという意見もあるかとは思いますが、成り行き上今取り上げておかないと、もう2度と話題の上る事がないと思われますので、あえて再挑戦してみます。


54.なぜ2000円札は流通しないのか?では、2000円札が持つ普及の難しさを考えてみたのですが、実際はもう大量に作ってしまって倉庫に眠っている訳ですから、それを何とか人々の経済活動に役立つようにしなければなりません。


本当に2000円札が必要かどうかはさて置き、作ってしまった物を無駄にしない為にはどうしたら良いかだけを考えて見ましょう。


来年7月以降に新紙幣が発行されます。2年かけて新紙幣を流通させていく計画のようです。この時期が、2000円札を普及させる事のできる最後のチャンスになるでしょう。


2000円札の失敗の理由はいくつかあるでしょうが、大きく分けると、次の2つになると思われます。



  1. 他の紙幣(1万円札、5千円札、千円札)に対応した自動販売機で、2000円札だけ新たに対応することが困難であった。
  2. 2000円という、中途半端な金額の紙幣になじみがなく、使いづらい。

今回、他の紙幣も一斉に更新されるので、自動販売機への対応に関しては互角になります。偽造防止の技術に関して、新紙幣には2000円札が作られた後に開発された技術が採用されている可能性もありますが、致命的な欠点になる事はないと思います。


以前は2000円札だけの為に、自動販売機の対応をする事はできなかったのですが、今回は全ての自動販売機を対応させる事が必要になりますから、同じスタートラインに並んだと言えます。


2番目の使いづらさに関してですが、2000円という中途半端に思える額面を、使わざるを得ない条件を作り出せば、最初は仕方なく使うにしても、徐々に2000円札に慣れて来るでしょう。そのための条件とは、新5000円札の流通量を絞る事です。


前にも書きましたが、USで25セント硬貨がポピュラーな割に、50セント硬貨はほとんど使われていません。25セントが便利だから、必然的にそうなったのかもしれませんが、流通量にも影響されると思われます。


意図的に5000円札の流通量を絞れば、2000円札を使わざるを得なくなります。2000円と5000円では、どちらも理想的な額面という訳ではなく、同じぐらい使いにくい筈ですから、慣れれば5000円札の必要性は感じない筈です。


これから印刷する5000円札の枚数を減らす事で、2000円札を普及させる事ができるのなら、費用の面でも以前の失敗を少しは取り戻せるのではないでしょうか?


あるいは、ついでに200円玉などを新しく発行すれば、2000円札に早く慣れる事ができるかもしれません。何々、これ以上無駄な貨幣を造ってどうする?いや、ごもっとも。

169.携帯電話と運転 (2003/08/12)

先日のテレビ番組「あるある大辞典」で、目や足の異常によって運転のミスが引き起こされると言うテーマを取り上げていました。目には、左右どちらかが利き目になっており、利き目でない方の目が衰える事によって、片側の視野が狭くなったり、遠近感が乏しくなったりするそうです。


利き目でない方の目が良く見えていない場合、車の片側(利き目の反対側)だけをよくこすったりするそうです。また、遠近感が乏しくなると停止している前の車に追突したり(御釜ですね)、駐車場の壁にぶつけたりするそうです。


長い時間、パソコンのディスプレーや携帯電話の画面を見続けている事が、その原因のひとつであるそうです。平面的な物ばかりを見ていると、両目を使って距離感を掴む必要がないので、利き目に頼った見方をするようになるそうです。パームを長時間見ているのも同じ事でしょうから、あまり長い間DOCを読み続ける事は、避けたほうが良いかもしれません。


これで思い出したのですが、少し前に「運転中に携帯電話を使うドライバーは通話中以外でも注意力散漫」と言う記事がHotWiredのニュースにありました。携帯電話で話しながらの運転は、危険であると言われてきましたが、運転中に携帯電話を使う習慣のあるドライバーは、たとえ携帯電話を使わなくても、注意力が散漫であると言っています。


つまり、携帯電話を使うドライバーは、運転が退屈だからそれを紛わす為に、携帯電話を運転中に使うのだと言うのです。しかも見ていると、かなり高い確率で携帯電話をしながら運転している人を見掛けます。


まさか、車を運転しながらパームを使っている人はいないでしょうが、パームもそのぐらいできるようでないと、気楽に使えないと言うことかもしれませんね。


とにかく、携帯電話を使いながらの運転が危険なのではなく、注意力散漫なドライバーそのものが危険であると言う事になります。携帯電話を使う事を取り締まるより、注意力養成講座を免許更新時に課す必要がある、と言う事でしょうか?

168.戦争の傷跡5: あとがき (2003/08/10)

人々の解釈は様々です。これらの戦争の傷跡を訪れても、すべての人が同じ感想を持つとは限りません。


広島の原爆に関しても、核兵器の問題を強く意識する人もいれば、戦争そのものの悲惨さを感じる人もいるでしょう。実際に自分の家族が犠牲になった人には、弔いの意味もあるでしょう。相手国に対する反感を強く感じる人もいるかもしれません。


アンネ・フランクの家テレジンは、ナチス・ドイツの狂気に満ちた歴史を物語っているのには違いないのですが、それを単にゲルマン民族至上主義に走ったドイツ国民固有の問題と見るか、戦争における民族主義の過激化が戦争における日常であると解釈するかは、分かれるところだと思います。


私は訪れていないので今回は紹介していないドイツ国内の捕虜収容所跡は別にして、どの施設も自国が犠牲になったものばかりです。例えば日本国内に今も残されている毒ガス製造の設備などは、戦争の傷跡として公開されるべきものであるかもしれません。しかし、これはなかなか難しいことです。ドイツが自国の捕虜収容所跡を公開している姿勢の非凡さを、改めて感じます。


アリゾナ・メモリアルで、自分が日本人であると言うことは、少なくともその場においてはうれしいことではありません。実に居心地が悪い訳です。広島にアメリカ人が行ったとしても同様でしょう。ただ、これらの大きな傷跡を残してしまった事を事実として認めながら、平和な世界をどのように作り出していくか、お互い知恵を絞っていくことが大切だと思います。人類には、知恵がある筈です。


最後に、参考になるインターネットアドレスを、いくつか記しておきたいと思います。


167.戦争の傷跡4: アリゾナ・メモリアル (2003/08/09)

もし、あなたがハワイのワイキキに行って、あまりの日本人の多さにうんざりしたならば、アリゾナ・メモリアルは格好の避難場所になるでしょう。ここで、日本人に出くわすことはですから。1994年9月に私が行った時も、日本人には一人も会いませんでした。


ホノルル空港からわずか2マイルしか離れていない、真珠湾の中のフォード島にアリゾナ・メモリアルはあります。1941年12月7日、午前8時から10時までの2時間の攻撃によって、戦艦アリゾナ沈没して完全喪失したのを始め、戦艦オクラホマ転覆戦艦カリフォルニアウェスト・バージニア沈没戦艦ユタ転覆戦艦ネバダ座礁しました。


これら以外にも、被害は甚大であったようですが、同時に日本軍にも多くの犠牲を伴いました。一説によると、真珠湾は浅瀬であるため魚雷が使えず戦艦には安全であると考えられていましたが、旧日本軍が開発した、投下後すぐに浮かび上がる事により浅瀬でも使えるようにした魚雷によって、攻撃されてしまったと言われています。


USS戦艦アリゾナは、弾薬庫に点火したため被弾からわずか9分足らずで、1,177名の乗組員を巻き添えに沈没したと言います。アリゾナ・メモリアルの建物は、その沈んだ戦艦の残骸を跨ぐようにして作られており、対岸のビジターセンターからボートによって訪れることが出来ます。


50年以上たった今なお、沈んだ船体からは、当時の燃料である重油が、時折ポッカリと浮いてくることがあります。船体に閉じこめられたが抜け出すように、こっちからポッカリ、また向こうでポッカリ浮かんでくる油を見ていると、私達に何かを語りかけ訴えているように思えてきます。


正義の名の下に今も行われ続けている戦争。人類の知恵を結集して戦争だけは避けなければいけないと、アリゾナ・メモリアルは私達に警告を発しているのに違いありません。

166.戦争の傷跡3: テレジン (2003/08/08)

テレジンは、プラハの北西、車で1時間足らずの所にあります。元々プラハにはユダヤ人の居住区があり、今なお新旧シナゴーク(ユダヤ教会)があります。テレジンの捕虜収容所には、ユダヤ人とプロテスタント、政治犯などが収容されていたそうです。


1989年の5月、2度目のヨーロッパ旅行で当時の東ヨーロッパを旅行しました。プラハからのどかな田舎道を走ると、突如として白黒の縞模様の入り口が見えて来ます。すぐ前の駐車場に止めても、特に観光地と言う感じではなく、案内標識一つありません。しかし、その異様な縞模様の入り口が、ナチスのものであった事を自ら物語っています。


中にはいると、すぐドイツの捕虜収容所の決まり文句である、「ARBEIT MACHT FREI」(働けば自由になる)のアイアンレースが目に入ります。そのゲートをくぐるには、今なお少なからず威圧感を感じてしまいます。


捕虜が収容されていた部屋は、小学校の教室ぐらいの広さでしょうか。そこに、三百人ぐらいが収容されていたようです。部屋の隅には、トイレであったであろう配管が残されています。そのような部屋がいくつも並んでいます。勿論、独房拷問室などの建物もありますが、どれほど悲惨であったかは計り知ることもできません。


よく怨念とか魂とか言いますが、全く感じない私でさえも、ただならぬ気配を感じます。どこからとか何かがではなく、その中にいる私の存在そのものが、打ち消されているような、負のエネルギーのようなものを感じます。


この収容所には、ガス室はなかったそうですが、遺体の焼却炉が残っており、多くの死体が焼かれていたことを物語っています。施設の一番奥のコンクリートの壁の前では、多くの処刑(銃殺)が行われたそうです。コンクリートには、一つ一つの弾痕が判らないほど多くの傷跡が刻まれています。


不思議なことは、今訪れてもその中にいる間は、外界の事が全く遮断されていることです。建物の構造がそのように出来ているからでしょうが、異様なほどに隔離されている感覚は、それまで感じたことがありませんでした。


建物の外周には、土塀のように巡らされたものがあり、その入り口の近くに、死体置き場であった洞穴がありました。一瞬躊躇しましたが、中に入ってみました。20畳ぐらいの広さでしょうか。一つだけ明かり取りの穴が開けられたその中には、いまだにうごめく気配があります。


その死体置き場から、土で出来た穴がずっと続いています。少し先に明かりが見えるので、数十メートルの穴だと思い腰をかがめながら歩いて行くと、明かりが見えたのは小さな明かり取りの窓からで、ずっと先まで続いています。引き返すことも出来ずにひたすら歩いていくと、200メートルは歩いたでしょうか。出て来たのは、先ほどの銃殺に使われたというコンクリートの壁の前でした。おそらく銃殺の後の死体を、運ぶための通路だったのでしょう。


私達が行った当時は、個人旅行の情報は地球の歩き方ぐらいしかなく、そこに掲載されていたドイツ軍の捕虜収容所は、アウシュビッツテレジンぐらいだったと思います。


後になって調べてみると、ミュンヘン郊外のダッハウの捕虜収容所や、そのほか10カ所ぐらいのドイツ国内の捕虜収容所跡が、公開されているようです。


アウシュビッツ(これはドイツ名)はポーランドですし、テレジンチェコです。しかし、ドイツ国内のナチスの捕虜収容所が、ドイツ国民によって公開されていると言うことに、過去の過ちを認め二度と過ちを繰り返さないと言う、ドイツ国民の強い意志を感じない訳には行きません。


我々日本人が、他国民の非情を訴えるだけでなく、自分自身の過ちを認めることが出来る日は来るのでしょうか?