166.戦争の傷跡3: テレジン (2003/08/08)

テレジンは、プラハの北西、車で1時間足らずの所にあります。元々プラハにはユダヤ人の居住区があり、今なお新旧シナゴーク(ユダヤ教会)があります。テレジンの捕虜収容所には、ユダヤ人とプロテスタント、政治犯などが収容されていたそうです。


1989年の5月、2度目のヨーロッパ旅行で当時の東ヨーロッパを旅行しました。プラハからのどかな田舎道を走ると、突如として白黒の縞模様の入り口が見えて来ます。すぐ前の駐車場に止めても、特に観光地と言う感じではなく、案内標識一つありません。しかし、その異様な縞模様の入り口が、ナチスのものであった事を自ら物語っています。


中にはいると、すぐドイツの捕虜収容所の決まり文句である、「ARBEIT MACHT FREI」(働けば自由になる)のアイアンレースが目に入ります。そのゲートをくぐるには、今なお少なからず威圧感を感じてしまいます。


捕虜が収容されていた部屋は、小学校の教室ぐらいの広さでしょうか。そこに、三百人ぐらいが収容されていたようです。部屋の隅には、トイレであったであろう配管が残されています。そのような部屋がいくつも並んでいます。勿論、独房拷問室などの建物もありますが、どれほど悲惨であったかは計り知ることもできません。


よく怨念とか魂とか言いますが、全く感じない私でさえも、ただならぬ気配を感じます。どこからとか何かがではなく、その中にいる私の存在そのものが、打ち消されているような、負のエネルギーのようなものを感じます。


この収容所には、ガス室はなかったそうですが、遺体の焼却炉が残っており、多くの死体が焼かれていたことを物語っています。施設の一番奥のコンクリートの壁の前では、多くの処刑(銃殺)が行われたそうです。コンクリートには、一つ一つの弾痕が判らないほど多くの傷跡が刻まれています。


不思議なことは、今訪れてもその中にいる間は、外界の事が全く遮断されていることです。建物の構造がそのように出来ているからでしょうが、異様なほどに隔離されている感覚は、それまで感じたことがありませんでした。


建物の外周には、土塀のように巡らされたものがあり、その入り口の近くに、死体置き場であった洞穴がありました。一瞬躊躇しましたが、中に入ってみました。20畳ぐらいの広さでしょうか。一つだけ明かり取りの穴が開けられたその中には、いまだにうごめく気配があります。


その死体置き場から、土で出来た穴がずっと続いています。少し先に明かりが見えるので、数十メートルの穴だと思い腰をかがめながら歩いて行くと、明かりが見えたのは小さな明かり取りの窓からで、ずっと先まで続いています。引き返すことも出来ずにひたすら歩いていくと、200メートルは歩いたでしょうか。出て来たのは、先ほどの銃殺に使われたというコンクリートの壁の前でした。おそらく銃殺の後の死体を、運ぶための通路だったのでしょう。


私達が行った当時は、個人旅行の情報は地球の歩き方ぐらいしかなく、そこに掲載されていたドイツ軍の捕虜収容所は、アウシュビッツテレジンぐらいだったと思います。


後になって調べてみると、ミュンヘン郊外のダッハウの捕虜収容所や、そのほか10カ所ぐらいのドイツ国内の捕虜収容所跡が、公開されているようです。


アウシュビッツ(これはドイツ名)はポーランドですし、テレジンチェコです。しかし、ドイツ国内のナチスの捕虜収容所が、ドイツ国民によって公開されていると言うことに、過去の過ちを認め二度と過ちを繰り返さないと言う、ドイツ国民の強い意志を感じない訳には行きません。


我々日本人が、他国民の非情を訴えるだけでなく、自分自身の過ちを認めることが出来る日は来るのでしょうか?