254.武漢3: 長江下り (2003/11/13)

結局武漢には2泊しました。1日目は夜行列車で一緒だった日本人と同室だったのですが、2日目は同じ部屋にヨーロッパから来た2人組の女の子(?)がいました。どうも男性女性を分ける事より、中国人と外国人を分ける事の方が大切なようです。


最終的に上海から日本への船に乗らなければならなかったので、次に目指すのは南京でした。武漢の暑さに参っていた私は、もうこれ以上この街に留まる気はありませんでした。


さて、ここからが大変でした。広い中国ですが、移動の手段は限られており、しかも揚子江と言う大河が流れていますから、東に行くには揚子江下りの船に頼るしかありませんでした。この切符を手に入れるのが一苦労でした。


長い列に並んでやっと順番が来たと思えば向こうに行けと言われ、向こうに並んで順番が来ればあっちへ行けと言われ。そうこうしているうちに何とか切符を手に入れ、船の上の人となったのでした。


その船の上たるや騒然としており、鶏は走るは、子供は甲板でうんこをしているは、船室は暑いは!食事の時間に食堂に行くと、何百人の人が列をなすでもなく渦巻いていました。こんなそんなで武漢から南京までの33時間の船旅は、これまた一生忘れることのできない思い出になったのです。


その船室に、時々ラジオの放送が入るのですが、何か聞きなれたメロディーが流れてきました。」です。


中国語で歌われていますが、まさしく谷村新司さんのあの名曲をうだる様な暑さの船の上で聞いた時、茶色く濁る揚子江の川面が涙でかすむ事を、抑えることはできませんでした。


武漢に新しく交通のインフラを建設すると言うニュースを聞いて、一気に様々な思い出が溢れて参りました。あれから18年、変わり行く中国の姿を見に、また武漢を訪れたくなりました。いや、やっぱり止めておきましょう。

253.武漢2: 三教街 (2003/11/13)

フレディ あなたと出会ったのは 漢口

 揚子江沿いのバンドで

 あなたは人力車夫を止めた

 フレディ 二人で 初めて行った レストラン

 三教街を抜けて

 フランス租界へとランデブー




私が武漢を訪れたのは、1985年8月でした。桂林からの夜行列車武昌の駅に到着し、硬臥と呼ばれる2等寝台の車両からホームに降り立った私は、そのかまどと呼ばれる40度を超える暑さに息が詰まりました。


ここが憧れていた武漢の入り口であるとは、信じることができませんでした。完全に時が止まっているように思えました。


駅から船着き場までは歩いて行きました。その大河に比べると小さく見える船に乗り込み、茶色く濁った川の水を眺めながら、対岸の漢口(はんかお)を目指しました。


フレディと最初に出会ったあの漢口です。


まず勝利飯店(Victory Hotel)に行ってみました。船着き場からバスに揺られて10分ほどで、勝利飯店に着きました。いや、最初から泊まる事ができないのは、中国に既に1週間以上いましたから解っていました。


「没有!」(めいよう)。


何回これまでに聞いた事でしょう。ホテルのベッド(部屋ではない)でも、飛行機の座席でも、列車の切符でも、それまでにあった試しがありません。すべて「没有!」一番最初に覚える中国の言葉として、バックパッカーの間ではあまりにも有名です。


国際旅社と言う宿を確保して、次は三教街を探します。しかし、そもそも三教街などと言うのは、旧租界時代の名称で、今やそんな呼び方を覚えている人はいないようでした。さんざん探し回った結果、やっと見つけたのは、「翻陽街」と言う1本の古びた裏通りでした。


ボンコと言うレンガ焼きのパン屋も、ヘイゼルウッドと言うケーキ屋も、教会の鐘の音もないのは分かっていました。ただ、その名残が少しでも感じられるかと期待して行ったのですが、全く気配さえ感じることができませんでした。


さだまさしさんが、お母様を連れて漢口を訪れられた時も、三教街を探すのに苦労をされたそうです。何度も何度も同じ通りをグルグル回って分からなかったそうですが、実はその間に三教街は何度も通られていたそうです。それ程までに、昔の面影がなかったのでしょう。


私の中国旅行では印象深い事がいっぱいありましたが、ここ漢口で体験したことはその中で一番忘れることのできないものでした。今でも、時々この曲を聴く時がありますが、そんな時はいつも悲しいような、つらいような複雑な気持ちになり、目頭が熱くなるのです。



けれどもそんな夢のすべても あなたさえも奪ったのは

 燃えあがる紅い炎の中を飛び交う戦斗機

 フレディ 私は ずっとあなたの側で

 あなたはすてきな おじいさんに

 なっていたはずだった

 フレディ あなたと出逢ったのは 漢口

「フレディもしくは三教街-ロシア租界にて-

作詩・作曲:さだまさし」 より引用(含冒頭部)

252.武漢1: 総合的立体高速交通システム (2003/11/13)

中国の武漢市で、新しく総合的立体高速交通システムを構築する計画があると言うニュースが、日経BP
BizTechに掲載されています。総額で4000億円近い投資を行い、道路、橋脚、地下鉄などの市内交通網ははもちろんのこと、大都市間高速鉄道航空・船舶の為の設備までも含めて建設しようと言う計画です。


武漢と言えば、昔から九省に通ずると言われるほど、交通の要所として栄えてきた所です。武漢三鎮と呼ばれ、武昌、漢陽、漢口の3つの街によって構成されています。


揚子江中流域に位置する為、船が長い間交通の手段として中心的役割を果たしてきました。長江を上る船は三峡観光として有名であり、下る船は遠く南京上海までも日常の交通手段として利用されています。


揚子江は川幅が広いため、そう簡単に橋をかけることができません。上流の重慶や下流の南京、そして武漢長江大橋は、それぞれ威容を誇っています。


揚子江沿いの都市は、夏場暑いことでも有名で、重慶南京と合わせて「中国三大かまど」と呼ばれているそうです。


武漢は広い川の両側に市街地が開けていますから、その間の行き来には苦労します。長江大橋を渡るバス川を渡す船が、これまで2つの地域をつなぐ重要な役割を担っていましたが、川の下に地下鉄を通そうとしているようです。


川の下にトンネルを掘るだけで大工事になりますが、そのほかにも様々な交通手段に対して工事をするのですから、これから数年間はほこりで街中が霞んでしまうかもしれません。


上海は、海外の資本の投入もあり、近代都市へと変貌し続けています。武漢もそれに遅れまいと、まず交通のインフラを整えようとしているのでしょう。昔からの交通の要所であったことを生かして、流通の拠点として重要な役割を担うことになるでしょう。


中国は如何にも広い!ですから高速鉄道や航空輸送の整備によって、あらゆる産業が発達する可能性があります。この交通システムへの投資によって、新たな近代都市として名乗りを上げ、多くの産業を呼び寄せることになるかもしれません。


ダイナミックに変貌を遂げる中国の姿が、ここにも始まろうとしています。