フレディ あなたと出会ったのは 漢口
揚子江沿いのバンドで
あなたは人力車夫を止めた
フレディ 二人で 初めて行った レストラン
三教街を抜けて
フランス租界へとランデブー
私が武漢を訪れたのは、1985年の8月でした。桂林からの夜行列車は武昌の駅に到着し、硬臥と呼ばれる2等寝台の車両からホームに降り立った私は、そのかまどと呼ばれる40度を超える暑さに息が詰まりました。
ここが憧れていた武漢の入り口であるとは、信じることができませんでした。完全に時が止まっているように思えました。
駅から船着き場までは歩いて行きました。その大河に比べると小さく見える船に乗り込み、茶色く濁った川の水を眺めながら、対岸の漢口(はんかお)を目指しました。
フレディと最初に出会ったあの漢口です。
まず勝利飯店(Victory Hotel)に行ってみました。船着き場からバスに揺られて10分ほどで、勝利飯店に着きました。いや、最初から泊まる事ができないのは、中国に既に1週間以上いましたから解っていました。
「没有!」(めいよう)。
何回これまでに聞いた事でしょう。ホテルのベッド(部屋ではない)でも、飛行機の座席でも、列車の切符でも、それまでにあった試しがありません。すべて「没有!」。一番最初に覚える中国の言葉として、バックパッカーの間ではあまりにも有名です。
国際旅社と言う宿を確保して、次は三教街を探します。しかし、そもそも三教街などと言うのは、旧租界時代の名称で、今やそんな呼び方を覚えている人はいないようでした。さんざん探し回った結果、やっと見つけたのは、「翻陽街」と言う1本の古びた裏通りでした。
ボンコと言うレンガ焼きのパン屋も、ヘイゼルウッドと言うケーキ屋も、教会の鐘の音もないのは分かっていました。ただ、その名残が少しでも感じられるかと期待して行ったのですが、全く気配さえ感じることができませんでした。
さだまさしさんが、お母様を連れて漢口を訪れられた時も、三教街を探すのに苦労をされたそうです。何度も何度も同じ通りをグルグル回って分からなかったそうですが、実はその間に三教街は何度も通られていたそうです。それ程までに、昔の面影がなかったのでしょう。
私の中国旅行では印象深い事がいっぱいありましたが、ここ漢口で体験したことはその中で一番忘れることのできないものでした。今でも、時々この曲を聴く時がありますが、そんな時はいつも悲しいような、つらいような複雑な気持ちになり、目頭が熱くなるのです。
けれどもそんな夢のすべても あなたさえも奪ったのは
燃えあがる紅い炎の中を飛び交う戦斗機
フレディ 私は ずっとあなたの側で
あなたはすてきな おじいさんに
なっていたはずだった
フレディ あなたと出逢ったのは 漢口
「フレディもしくは三教街-ロシア租界にて-
作詩・作曲:さだまさし」 より引用(含冒頭部)