194.ベガの願い (2003/09/13)

何と美しい話なのでしょう!久しぶりに涙を頂戴いたしました。vega21にそのような逸話があったとは、全く知りませんでした。ふふふ総帥の感受性の高さを、改めて思い知らされた気がします。


星の光は、何千年、何万年かかって地球に届きます。時空を超えた神秘性は、太古の時代から人々を魅了して来ました。現代に住む私達も例外ではなく、星の輝きに生命の起源この世の果てを見つけようとします。


私がまだ学生だった頃、家庭教師のアルバイトで教えていた中学生に、プレアデス星団、通称「昴」を教えて貰ったことがあります。勉強が終わって帰り間際に、「意識しないでぼうっと眺めていると、だんだんたくさんの星が見えてくるよ」と教えられて、その子と2人で夜空を眺めていたことを思い出します。その後、昴と言えば、谷村新司の歌で有名になりました。


流れ星に願いを込めたり、宇宙に永遠の生命の夢を追いかけたり、星とはつくづく不思議なものだと思います。おそらく、まだ現代の科学では解明されていない、生命の起源の秘密時間と空間の謎が、星や宇宙の中に潜んでいる事を、私達は本能的に感じ取っているのかもしれません。


日経サイエンスの2003年8月号に、「平行宇宙は実在する」と言う記事がありますが、そのプロローグには、


「この世には別の宇宙がたくさん存在し,あなたとまったく同じ人生を歩んでいるもう1人のあなたがどこかにいる。そんなバカな?」


と書かれています。私達は、星に運命を見て、また来世を予想しますが、本当に彼方に輝く星たちに、私達の過去や未来がそっくりそのまま存在している可能性は否定できません。


この記事の中では、次のようにも述べています。


無限の空間のどこかでは,いかにありそうにない事柄であっても,可能性のあるものなら現実となる。私たちの望遠鏡では観測できない外側には,私たちの宇宙とそっくりな別の宇宙がある。

193.国の危険回避調査が物語るもの (2003/09/11)

神戸新聞WEB NEWSに、「神戸、大阪の空やっぱり過密 国の危険回避調査
」と言う記事が掲載されています。危険回避を指示する衝突防止装置(ACAS)が作動した経歴を調査した結果、大阪地区の空が過密状態であると指摘されています。


現在大阪には、伊丹空港関西空港がありますが、これらに加えて神戸空港の建設が進められています。現在すでに過密化が問題になっていて、衝突防止装置が作動しているとすれば、さらに危険度が増すことは必死です。


ご存知の通り、飛行機は追い風では揚力が不足するため、向かい風になるような方角から、滑走路に進入・離陸します。関西空港の場合、普段は南側から着陸し、離陸は北向きいに飛び立つのですが、風向きによっては北から着陸することがあります。


この時、着陸態勢に入った飛行機は、徳島空港上空から淡路島をかすめながら、神戸港上空を通過して、大阪湾全体を使って旋回します。これは、伊丹空港の離着陸機を避けるためだと思われます。


しかし、その神戸港の中に、新しく神戸空港を建設しているのです。本当これらの空港は、同時に使うことが出来るのでしょうか?あまりにも距離が近すぎるように思えます。実際は、神戸に空港を造っても、それほど便数が無いのかもしれませんが、それならなおさら建設の必要は無いでしょう。あるいは頻繁に離発着が繰り返されるなら、異常接近する事が頻繁に起こるでしょう。


米国のハブ空港では、多くの便をこなすために、平行に2つの滑走路を持つ空港があります。同時に発進して同じタイミングで離陸していく飛行機を見ていると、お互いの旋回する向きを間違えると、すぐに衝突してしまいそうでヒヤヒヤします。


飛び上がって数十秒後には、お互い離れる方向に向きを変えていきますが、かなりアクロバティックな感じがします。只、同じ空港から飛び立つのは、管制官が2機とも把握しているので、間違いが起こりにくいかも知れません。しかし、近くにある別々の空港から飛び立った飛行機同士の場合は、あっという間に接近してしまい、管制官が異常接近に気づいた時は、既に手遅れになっているということが起こらないか心配です。


192の雑記の、製造現場の安全性でも同じ事が言えますが、安全を保つための努力をすることはもちろん必要です。しかしそれ以上に大切なのは、設備や交通システムそのものが持つ、潜在的な安全維持能力ではないでしょうか?地元経済への期待を皮算用する前に、交通機関で一番重要である安全性の検討を十分にして頂きたいものです。

192.安全性とコストの問題 (2003/09/10)

Nikkei Netの社説に、「製造業は基本に戻り安全対策の確立を」と言う記事が掲載されています。最近、日本の製造現場で続いている事故の原因がどこにあるかを、検証しています。


原因のひとつとして、製造現場の人員削減を上げていますが、製造業の従事者の数は、1992年の1569万人から2002年の1222万人まで減ったそうです。無駄を省くための人員削減であれば良いのですが、安全に欠かせない人員の削減になっているのではないかと危惧を呈しています。


また、設備の老朽化が進んでいるそうです。製造設備の使用年数が、1991年では日本が9.3年、USが7.3年だったのが、今では日本12年、US7.9年と、極端に日本の設備の老朽化が進んでいるそうです。


使用年数に関しては、よく航空機の例が出されますが、安全と言われている航空会社は、概ね平均機齢が若いようです。勿論、新しいばかりではなく、使い込むことによってカバーできる部分もあるでしょう。これまで以上にアイディアをひねり出して、安全性を保つ方法を考えていかなければなりません。


NASAの事故の際にも、徹底的に安全性を見直したようです。スペース・シャトルが経済性や安全性で優れているという前提さえも、見直しの対象になっているそうです。


安全と言うものの考え方や設計思想までも含めて、日本の生産現場の現状に合わせた、新たな安全管理、品質向上の方法論を築いていかなければならないのです。


米国式は、マニュアルで事細かく規定して、誰がやっても同じ結果が出るようにしています。これに対して日本では、これまで製造現場の自主的な改善活動に任せておけば良かったのですが、これからは設計で品質を作り込むことを、いっそう進めていくことが求められて行く事でしょう。

191.中国製ベンツはいかが? (2003/09/09)

ダイムラー・クライスラー社が中国の企業と合弁で、ベンツの生産を中国内で行うと発表したようです。ベンツのEクラスCクラス、トラックなどを生産する予定だそうです。


現在のベンツ Cクラスの右ハンドル車は、初期のものを除いてドイツでは作られておらず、南アフリカ製だと聞いていますが、今後はアジアに輸出する車種は中国製が主流になる気配です。


ドイツの工業製品は昔から定評がありますが、それは設計思想ばかりではなく、マイスター制度を代表とするドイツの製造工程に対する信頼によるものでした。しかし最近は、それまでドイツ製だと思っていた製品が、実は他の国々で製造されていたという場面に、出くわすようになってきました。


1970年代の後半、それまで絶対的な信頼を得ていたドイツ製カメラが、ドイツ以外で製造され始め、その製品に対する評価がカメラ雑誌などで盛んに討論されていたことがあります。


ローライという、二眼レフのローライフレックスや、35mmコンパクトカメラのローライ35で有名だったドイツのカメラメーカーがシンガポールで製造を始めたときに、それまで「Made in West Germany」と表記していたのを、「Made in Singapore」とはせずに「Made by Rollei Singapore」としたことを覚えています。


当時のカメラ雑誌の記事によると、ドイツ国内で製造されていないのはダメだという風潮が強かったようです。しかし、その後ライツ社がカナダで製造を開始し、「Made by Leitz Canada」と表記し始め、復活したコンタックスヤシカカメラ(その後京セラが買収)から発売され、いつまでもドイツ製にこだわり続けることができなくなってきました。


しかし、いまだにコンタックスのレンズの場合、日本製よりドイツ製の方が描写が良いと言われていたりします。本当に違いがあるのか、単なるドイツ製信仰のなせる業なのかの議論があるのですが、趣味としてはこのあたりのところにこだわりを持たないと面白みにかけますから、議論を大いに楽しむのがよろしいかと思います。


ベンツの話に戻しますが、現行のCクラスを南アフリカで製造するに当たり、製造技術に左右されないように設計を工夫したそうです。高い製造技術を用いなくとも同じ品質が保てるようにしたらしいのですが、その結果はめ込み部品が増えたりパーツのユニット化が進んで、ベンツの高級車としての雰囲気が失われてきたと嘆く人もいるようです。ベンツぐらいの生産規模になると量産車メーカーですから、手作りの良さをかもし出すのはすでに無理があるのかもしれません。


パリでタクシーに乗った時、そのプジョー406に興味を持った私が運転手に、プジョーはいい車かどうか聞きました。彼は、「プジョーも悪くはないけど、すぐに傷んでしまう。それに比べてベンツは丈夫だから、壊れるまでに倍ぐらい長い距離を走ることができる。でも高いから俺はプジョーしか買えないんだ。」と言っていました。


このベンツが中国で生産が開始されると聞いて、これまで築いてきた信頼を中国製のベンツが裏切らなければ、世界の製造工場として、また一層中国が飛躍することになるだろうと思いました。

190.間違った計算はただの落書きである (2003/09/07)

「188.偶然は小説より奇なり」に於きまして、計算の間違いがあるというご指摘K様より頂きました。どうもありがとうございました。188の雑記に打ち消し線注釈を付けさせていただき、ここに再度根性を入れ直して計算をやり直させて頂きます。


まず、過ちの原点は何事に付けても同様であるわけですが、全体を見渡すことを忘れていたことであります。つまり、どのような事象の集合体が100%であるかを捉えていなかった、と言うことです。その為、1より大きい数字確率と思い込んでしまいました。どうも確率期待値がごっちゃになっていたようです。


ではやり直してみます。30人のクラスの場合で、少なくとも1組の同じ誕生日の生徒がいる確率を求めます。


最初に1組も誕生日が他の生徒と重ならない確率を求めていきます。1人目は誕生日がいずれの日であっても他と重なることはないですから、365日の内365日が該当し、365分の365の確率になります。


2人目は、1人目と重ならないようにするには、1人目の誕生日以外の364日のいずれかでなければなりませんから、365分の364の確率になります。以下順に確率を求めると、3人目は365分の363、4人目は365分の362と言うように、30人目は365分の336になります。


1組もいない確率は、これらが同時に起こらなければなりませんから、


365/365 x 364/365 x 363/365 x …. x 336/365
= (365!/335!)/36530 = 約0.3


今求めるのは、1組も同じ誕生日の生徒がいない事象の余事象になりますから、100%から約30%を引いた約70%が、少なくとも1組の同じ誕生日の生徒がいる確率になります。10クラスあれば、7クラスに同じ誕生日の生徒がいる確率だと言うことです。


先ほどご指摘を頂いたK様は、40人クラスの時の計算では約90%の確率で、少なくとも1組の同じ誕生日の生徒がいると計算してくださいました。この場合は、10クラスあれば9クラスにいることになり、かなり高い確率だと言えるでしょう。


実は、この話は10数年前に、数理何とかと言う数学系の雑誌のコラムに掲載されていたものです。印象に残っていて思い出して書いてみたものですから、いい加減な計算になってしまい申し訳ありませんでした。その雑誌には、ちゃんとした計算が書かれていたと思うのですが、高い確率で同じ誕生日の生徒がいると言う結論だけが、印象に残っていたのでした。


改めてこのような計算は、基本をしっかりと押さえておかないと、誤りを誘発してしまうことを感じました。また、ご指摘を頂いたK様には、重ねて感謝致します。どうもありがとうございました。