319.テレビ放送を考える5: 地上デジタル放送に望むもの (2004/02/27)

さて、何回かに分けて現在のテレビ放送の持っている問題点を考えてみたのですが、なぜ今取り上げるのかというと、地上デジタル放送に対して疑問があるからなのです。


確かに世界中の流れとして、アナログ放送をデジタル化する事は必然性があるのかもしれません。何と言ってもこれまで情報をリアルタイムで全国に送り続けてきた代表的なメディアですから、時代のニーズに合わせた変革が必要となってくるでしょう。


しかし、単に技術的にアナログからデジタルに変えるだけで良いのでしょうか?他の国のデジタル放送は、ただ放送局と受信機のハードウェアを置き換えるだけなのでしょうか?


よく地上デジタル放送は、白黒テレビがカラー化したのと同じぐらいのインパクトがあると言われていますが、本当でしょうか?それは技術的な変化の大きさしか見ていないのではないでしょうか?


例えば、電話がアナログからデジタルになったとき、音声を伝えていただけであった電話機でメールを送れるようになったり、画像を送れるようになりました。一体地上デジタル放送でどんな夢が実現できるかが視聴者に訴えることが出来なければ、アナログからデジタルへの移行は思った通りには進まないかもしれません。


285.600メートルの第2東京タワーは必要か? (2003/12/18)」でも書きましたが、ハードウェアばかりでなく、ソフトウェアにも力を入れて行かないと、できあがったインフラが社会のお荷物になってしまう可能性があります。


これまでの視聴率競争を前提とした番組作りを改め、絶対的なマスメディアであったと言うプライドを捨てコンテンツの開発を重視する集団にテレビ局がなっていかなければならないように思います。


例えば、チャンネルを放送局の既得権として割り当てるのではなく、全ての放送チャンネルを管理する会社を組織し、放送局がその枠を番組作成ごとに買い取るようにするのはどうでしょうか?


一定の放送枠を放送局同士で取り合うのです。一般的な製品の市場におけるシェア争いに似ているかもしれません。今より厳しい競争原理が導入されれば、コンテンツである番組自体の価値を高めなければなりません。資産となる番組、すなわちコンテンツを蓄積することが重要になるのです。


ディズニーやその他のUSの映画会社は、多くの映像資産を抱えています。日本のテレビ局は、そのような資産となるような映像を持っているのでしょうか?NHKのライブラリーには比較的多くの財産があるようですが、後世に残すことの出来る文化資産としての映像資産の蓄積が望まれます。


視聴率という一過性の成果に一喜一憂する事から脱却し、価値のある文化資産を蓄積する事に目的を移すことが出来るならば、放送と言うメディアの将来も明るいように思うのですが、、、

318.テレビ放送を考える4: マスメディアからコンテンツへ (2004/02/26)

マスコミ、またはマスメディアと言えば、新聞雑誌などの出版業界か、ラジオ・テレビ放送業界を指していました。出版と放送(Publication&Braodcast)は、1対多(mass)情報伝達の方法です。


個人がネットワークによって接続されていない時代においては、マスメディアは唯一の確立された情報ラインでありましたから、その社会的重要性は絶対的なものでありました。また限りのある電波を利用すると言うことから、放送免許を与えられる放送局には公共性が必然的に求められました。


地域ごとに与えられる放送免許は限られており、放送事業そのものが通常の需要と供給で市場が形成されるものと異なっていました。社会的な特権と言えるでしょう。ラジオやテレビの放送として利用できる電波の周波数帯が限られていたため、そう簡単に放送局を増やすことができなかったのです。


ところが電子技術の発達によって、放送・通信機器で扱える周波数帯域はどんどん広がって来ました。


昔なら1Ghzを越える周波数帯を使おうとすると、その装置を構成するのは一般的な電気部品ではなく、板金加工によって作られる導波管のような物でした。また、高周波出力には必ず特殊な真空管を必要としていました。しかし、半導体技術の進歩により、これらの高い周波数が半導体だけで実現できるようになりました。2Ghzを超える高周波発信回路がが携帯電話の小さな筐体で実現できていることはご存知の通りです。


放送や通信で利用できる周波数帯域が以前に比べ格段と増えた結果、放送ではBS放送CS放送が始まりました。通信でも携帯電話や少し利用形態が異なりますがRFID無線LANなどが登場することになります。


さて電波の利用が増えたのと同時に、インターネットに個人のパソコンなどが接続されました。放送の場合は常に1対多の関係でしたが、インターネットの場合はアドレスをユニークに持つことにより1対1の関係であったり、多くのアクセスを誇るサイトがあるように1対多の関係も起こります。放送が不特定多数の相手に対して流しっぱなしだったのとは大きな違いです。


このように以前は絶対的な情報の支配力を誇った放送も、メディアの多様化に伴って社会に対する影響力が年々低下してきているのです。放送業界内部だけで競争をしていたのでは、メディアとしての存在そのものが脅かされるようになって来ています。


昔のように放送免許を持っているだけで情報の一元的な発信者になることができた時代は終わりました。放送ももはやマスメディアと言うよりは他の多くのメディアの一つに過ぎなくなり、テレビ放送のメディアとしての優位性は失われてきています。そのような変化の中で、テレビ放送はこれまでのマスメディアの特権を忘れ、自ら優れたコンテンツを生み出していくように変わっていかなければならないのではないでしょうか?


地上デジタル放送が本格的に始まろうとしていますが、技術的な利点を誇示することをやめて、コンテンツの充実を図る努力を怠らないようにしてもらいたいものです。

317.テレビ放送を考える3: 視聴率競争 (2004/02/25)

視聴率テレビ放送業界においては一番重要であるようで、視聴率の浮き沈みに放送局は一喜一憂しているようです。最近では、視聴率が低迷したままのドラマなどが途中で打ちきりになることも増えています。


今放送されているドラマでも、SMAPが主演しているものはなかなか検討していますが、それでも以前に比べると安泰というわけには行かないようです。


ましてやミスキャスティング脚本の不備などがすぐに指摘されるようなドラマになると、初回の放送は期待票が集まるためそこそこの数字を残せても、最後の方になると数パーセントの視聴率を出すのが精一杯になるものがあるようです。


高視聴率を必ず狙えた脚本家でさえも、高視聴率を稼ぎ出すことは容易いことではなくなってきています。昔のように一度流行れば、2番煎じ、3番煎じで後に続くことが出来た頃とは大きく様変わりしています。


一方で、視聴率を不正に高く見せるために、視聴率を買収したという事件が発覚しました。放送局にとって視聴率は重要なのですが、その公正さを損ねてまで数字を取りに行くと、却って自らの首を絞めることになりかねません。


"asahicom Be on Saterday"にフジテレビCEOの日枝氏のインタビューが掲載されていましたが、これからは視聴率の意味が変わると語っておられます。テレビ放送のことを、「視聴者が努力しなくても情報が得られるメディア」とし、手軽に情報を得られるメディアとしての存在をアピールしています。


80年代、フジテレビでは視聴率を厳しく評価しすぎて番組作りに自由な雰囲気がなくなっていたそうです。「楽しくなければテレビじゃない」、をキャッチフレーズに、それまでの行き過ぎた視聴率競争を止め、その結果「笑っていいとも」「オレたちひょうきん族」を生み出します。今でも視聴率に左右されない経営を目指し映画やイベントに力を入れているそうです。


地上デジタル放送に関しては、「テレビの中に、パソコンが入るようなものです」と言っていますが、パソコンとテレビの融合は既に始まっていますから、どちらが最終的に主役になれるか興味のあるところです。これは携帯電話PDAにも同じ事が言えるでしょう。


インターネットなどの通信がテレホーダイからブロードバンドに移りゆく過程で、かつてのゴールデンタイムにパソコンでインターネットに興じる人が増えているそうです。今や放送局の番組同士で視聴率を競っている場合ではなく、テレビ放送と言うメディアが他のメディアと伍していかなければならないのです。双方向性をデジタル放送によって手に入れたとしても、それだけで飛躍的に魅力が増えるとは思えません。


これまでもテレビ局は視聴率に変わる、「視聴質」を検討してきたそうですが、番組を見た事による「充足度」を測る尺度を設定することは困難であったようです。ただ、これからのデジタル放送による多チャンネル化や双方向化によって、「視聴率も技術革新に遅れないようにしなければ。」と結んでおられます。


家庭にビデオDVDパソコン携帯電話もなかった時代は、テレビとラジオがリアルタイム・マスメディアの双璧でした。しかし、あらゆる映像、音声、情報が様々なメディアを通じて発信されている現在、テレビ放送の存在意義自体が薄れてきています。


テレビ放送の特徴である世界同時性、即時性、一元性、公共性を有効に行かしてこそ、これからのデジタル時代に欠かすことの出来ないマスメディアの一つになることが出来るのではないでしょうか?

316.テレビ放送を考える2: サブリミナル映像 (2004/02/21)

まず最初に、サブリミナル映像の問題について考えてみたいと思います。今週問題になったのは、日本テレビの「マネーの虎」での一万円札の映像を挟み込んで放送していたという事件です。


サブリミナル映像とは、ごく短い時間ある映像を挿入し、その画像を見たという意識を持たせずに、潜在意識に訴える手法だそうです。潜在意識的表現手法と呼ばれています。


日本テレビの広報では、1万円札の画像を0.2秒間に当たる6コマ分を挿入していたそうです。普通に見て認識できる時間であるはずなので、サブリミナル映像には該当しないと説明しています。プロデューサーはお金と言うテーマを表現したかったそうです。しかし、その為に0.2秒の1万円札画像にする必要があったのでしょうか?


視聴者がテレビ放送の画像を目で見て、脳でそれを認識する事によって初めて、その人の常識や人格に基づく判断が出来ます。もし明らかに道徳的に間違った画像を見せたとしても、視聴者はその人なりの判断を下すことが出来ます。


サブリミナル映像は、視聴者が通常感知出来ない方法によってメッセージを伝達し、人による判断が出来ないように、意図的に細工をすることが出来ます。公正とはいえず、放送に適さないとされています。


このような手法は、視聴者に訳の分からない不安を抱かせることがあるかもしれません。例えば1万円札の画像をサブリミナル映像としてみた人に中には、なぜだかへそくりの隠し場所が気になったり、銀行預金の残額が気になる事があるかもしれません。お金に絡む犯罪が増える危険性も考えられます。


サブリミナル映像と似た話に、「ポケモン」のアニメで起こった「光感受性てんかん騒動」がありました。これなどは、海外の放送局では明確なルールが何十年も前に決められていて、日本の放送局にルールがないことが疑問視されていました。


マスコミ、特に放送と言う媒体は1対多の関係であり、多くの視聴者を対象とする公共的な性格を持っています。


このことを歴史に示したのが、あまりにも古くあまりにも有名な事件、1938年10月30日CBSのラジオ番組「宇宙戦争」でした。火星人がアメリカに上陸し攻めてきているというラジオドラマが、放送を聞いていた全米1200万人を震撼させたのです。


あまりにも良くできたラジオドラマが、ニュースと同様の信憑性を持ったとき、フィクションとノンフィクションの境目が見えなくなってしまうのです。


サブリミナル映像は日本でも「日本民間放送連盟・放送基準」によって禁止されています。その禁止されている映像表現を使った番組を制作すると言うことは、禁止薬物を使うスポーツ選手と少し似ているかもしれません。出場停止処分にならないように気を付けてもらいたいものです。

315.テレビ放送を考える1: 予告 (2004/02/20)

大阪で初めてのパームユーザーの催し「Palm Day Osaka」が開催されると言うことで、パームコミュニティーでは盛り上がりを見せております。スタッフのみなさまも大変でしょうが、是非成功させていただきたいものです。


一昔前のように順風満帆であったパームならば勢いにのって何をやってもうまく行く雰囲気がありましたが、パームを始めとするPDAの市場が拡大しない環境がこう長く続くと、停滞感を感じることもしばしばです。


しかしそのような状況においてさえ、このようなイベントを興そうというパワーがあることはすばらしいことだと思います。出来れば参加させていただき、少しでもこのイベントの成功を後押しできればと思っております。


ソニーの新製品の話題もパームコミュニティーには良い刺激になっておりますが、PIMとしてのソニーからの新しい提案の今後の発展が気になるところです。これまでPDAの中心的な機能である筈のPIMが、長い間進化してこなかったのは疑う余地がありません。


進化の必要がなかったのか? あるいは技術的に進化できなかったのか? ソニーがその答えを見いだし、新しいPIMの姿を追求しようとしていることに大きな期待を寄せたいと思います。


ところで、最近テレビ放送業界の不祥事が相次いでいます。今日も偽札輸入事件番組編集問題が報道されております。また、昨日はサブリミナル(潜在意識)的表現手法の問題も発覚しました。


何かテレビ放送業界にただならぬ変化が起こっているのかもしれません。マスメディアの覇者であったテレビ放送を考えたとき、他のメディアのデジタル化の波にもまれて方向を見失っているように思えます。


どのような展開になるか分かりませんが、特集として数回に分けて考えてみたいと思います。もし興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、お暇つぶしにお立ち寄りください。