ライブドアとフジテレビによる、ニッポン放送の争奪戦の行方が注目されています。単なるマネーゲームと言う見方をする人もいるようですが、事の重要さはそれだけに留まりません。
海外資本によるM&Aリスクや国内企業の資本提携のねじれ、株式市場の制度の欠点や法整備の遅れなど、多くの問題を一気に表面化させたと言えるでしょう。
さらに、メディアとしてのテレビに、インターネットが真っ向から挑戦している点も見逃すことができません。日本における将来のメディアのあり方を変える可能性があるだけに、社会に及ぼす影響が一番大きいかもしれません。
今回ニッポン放送が対象にされたのは、フジテレビとの株の持ち合いによってねじれた資本関係にあったためとされています。しかし、1970年代を知る者にとっては、ニッポン放送は特別な意味を持っています。
1970年と言えば大阪万博が開催された年です。FM放送が開始されたのもその頃でした。まだラジオがメディアとして大きな力を持っていた時代でした。
今ならNHKでさえ、深夜までテレビ番組を放送していますが、その頃は23時になればロダンの「考える人」をバックに君が代が流れて放送終了でした。他の民放も1時ごろには終了していました。その後はラジオの深夜放送が唯一のメディアだったのです。
オールナイトニッポンは、その当時の深夜放送の御三家と言われたセイヤング(文化放送)やパックインミュージック(TBS)と共に人気を集め、多くの地方ラジオ局でも中継されていました。
特に70年当時のオールナイトニッポンの人気はすさまじく、DJに糸居五郎や今仁哲夫、そして亀渕昭信を擁していた時代が、その最盛期であったことは疑う余地がありません。
ペンネームを使ってリクエストカードをラジオ局に送ることが、若者のひとつのファッションになっていたのです。DJの今仁哲夫氏にリクエストカードを送るのに、住所も放送局名も書かずに「東京 テツ」だけで届いたと言うのは、今や伝説と言えるでしょう。
ニッポン放送は、当時から糸居氏が「50時間マラソンジョッキー」に挑戦したり、まだ知名度のなかったホンダの新型車(ホンダクーペ)を使って全国をキャラバン隊で廻ったりと、何かと注目を集めていた放送局でした。
かつてオールナイトニッポンのDJであった亀渕氏が社長になったニッポン放送は、今度は新しい時代をリードするインターネット企業によって話題の中心に引っ張り出されています。世間の注目を集めるのは、ニッポン放送の伝統なのかも知れません。