82.ダウンサイジング推進計画5: ユビキタスとオンデマンド (2003/04/26)

突然ですが、問題です。ここに1リッターのガソリンで10キロメートル走ることができる自動車があります。この自動車を使って、10キロメートル先の地点に行くとき、あなたは何リッターのガソリンを積んでいきますか?ただし、途中にガソリンスタンドはないとします。


10キロメートル先に行くときに、1リッターだけのガソリンを積んでいく人は、よほど楽観的な人だけでしょう。燃費と言っても、ある一定の条件で測定された物ですから、いつもその通りになるとは限りませんね。1リッターちょうどのガソリンで出かけたら、およそ50%の確率で、途中でエンストすることになるでしょう。


ですから、1.5リッターとか2リッターとかのガソリンを積んで出かける訳です。余裕を持って必ずガソリンが余るようにするのです。


普通はガソリンを入れるのは手間がかかり、1リッター単位でしか入れることができず、エンストするまで、本当に必要なガソリンの量が分からないからです。


では、もし途中で、速やかに、1cc単位で、回数に制限なく、余分なコストがかからないで、ガソリンを入れることができるとしたら、どうするでしょうか?おそらく、0.8リッターぐらいでスタートし、途中で足りない分だけ、こまめに補給するでしょう。つまり、ガソリンが無駄にならないようにするのです。


自動車に、これまでのような大きなガソリンタンクは、必要でなくなるでしょう。その瞬間に必要なだけの量を蓄えることができる、必要最小限のガソリンタンクさえあれば、足りなくなったらすぐに必要なだけガソリンを手に入れることができます。


実は、ページからフレームへの転換を図る真意はここにあります。もう、無駄になるかもしれない情報を、後生大事に持ち歩くことはありません。


いつでも、どこでも、欲しいだけ!手間と余分なコストをかけずに、情報を享受できるようにするのが、ユビキタス・コンピューティングの姿です。パソコンからパームへの、ダウンサイジングを実現する秘法がここにあるように思います。


そして、ユビキタス・コンピューティングを実現するのに、重要なコンピューティング技術が必要になります。オンデマンド・コンピューティングです。


これまでのように、予め将来必要になるだろうと思われる情報を提供するシステムを、準備しておくのではなく、必要になったときに必要な情報をリクエストする為の、システム環境を構築する事が必要になってきます。


システムに対する要求は、時代と共に変化していきます。しかも、世の中の情報の流れは、ますます複雑になっていきます。今日は、昨日までと違った情報が、必要とされるかも知れません。


このような状況において、これまでのように個別にシステムを構築していけば、システムの稼働までに時間とコストがかかるばかりか、できあがったシステムの寿命は、予想よりはるかに短い物になってしまうかもしれません。これは、大きなリスクであると言えるでしょう。


オンデマンドが、いったいどのような物であるのか?これまでの情報の流れを、どのように変えていくのか?そして、パームは、その中でどのような役割を担うのか?次回は、これらの点について、考えてみたいと思います。

81.ダウンサイジング推進計画4: フレームの勧め、人間の知性を問う (2003/04/26)

写真印画を鑑賞する時、手に持って見るサイズは、最大でも四つ切りまでです。なぜなら、それ以上大きくなって、半切(はんぜつ)程になると、手で持っても大きすぎて、また真っ直ぐにして持っていることができなくなります。ですから、半切以上はパネルにします。


A4の用紙も同じ理由で、手に持って眺めるには、ちょうど良い大きさです。全体を見ることができますし、手で持て余す程大きくはありません。


A4サイズは、本のように文字がびっしり詰まった読み物でも、手で持ちやすい大きさですから、じっくりと読むことができます。では、オンラインの情報を表示する媒体として見たときに、A4のサイズはちょうど良い大きさなのでしょうか?


皆さんはA4に書かれた内容を、一瞬で理解できますか?A4に書かれた情報は、全て有効に使われましたか?WEBの1ページに表示されている全ての情報に目を通せましたか?


答えは、おそらくノーです。例えば、新聞のWEBサイトのトップページでさえも、全てを読むことは困難です。1ページには、その時、その人が必要な情報が含まれているはずですが、しかし、その時には必要のない情報も多く含まれます。いや、大半が必要でない情報かもしれません。


私たちは、多くの情報から自分の今必要である情報を選択するという仕事を、いまだにコンピューターに任せることができないのです。


駅の自動券売機で切符を買うとき、上に掲示されている運賃表から、到着駅までの料金を探し出すのは骨が折れます。目的地以外の駅の情報は、あなたが本当に必要とする情報を、埋もれさせてしまいます。同じ事がページと言う物理レコードの単位にも言えます。1ページには、本当に必要な情報を埋もれさせてしまう情報で溢れています。


更に、もしページに含まれる情報の全てが、その時に必要な情報であったとしても、その全てを有効に利用することはできないでしょう。それは、人間が同時に認識できる対象物の数には、限界があるからです。


動物が、いくつの数まで概念的に認識できるかを考えるとき、カラスの話が良く出てきますね。ごん平が種まきゃ、カラスがほじくる。そこで、2人が小屋に入り1人が出ていき、カラスを待ち伏せても、カラスは2と1の区別ができるので、寄って来ない。3人入って2人出ても同じ。結論は、5まで数えられたり、7まで数えられたり。まあカラスにも、優秀なカラスとアホガラス(失礼)がいても、不思議ではありません。


では、人間はどうかというと、一つずつ数えればいくつまででも数えられますが、一瞬で認識できるのは、やはり7ぐらいになりそうです。あるいは、記憶としては、3秒から5秒、つまり1つの俳句を詠む時間ぐらいしか、前の記憶を保持できないそうです。これは、俳句の標準的な長さである17文字に相当するそうです。また、別の研究によると、1ページ分の本を読んだときに、単語として読んだすぐ後に思い出せるのは、10語ぐらいだそうです。


54.なぜ2000円札は流通しないのか?
(2003/03/28)
で作った表を見てください。1円玉と10円玉しかない場合、最大9個の硬貨を使わなければならないのですが、5円玉を追加すると最大でも5個で払うことができるようになります。もし、人間が9までの数を直感的に認識できるのなら、5円玉はなくても不便ではないはずです。


コンビニで、100円ぐらいの物を買って、1万円を出したとき、お釣りの9千円が千円札ばかりで9枚来ると、いやですね。もし8枚しかなかったとしてもすぐには気づきません。でも、5千円札と4枚の千円札ならば、一目で間違いがないことが分かります。人間も、直感的に分かる数の限界は、カラスとそれ程違わないのかもしれません。


話が、大きくそれてしまいましたが、要約すると、人間は余り多くの情報を一度に見せられても、必要な情報を選び出さなければならないし、どうせ全て覚えているわけでもないので、最初から必要な情報だけを選び出してページより小さい物理レコードの単位である、フレームに表示するようにすればどうでしょうか、と言う提案をしたかったのです。


「何を言っとる、無駄なように見えて、1ページの中にはあれば便利な情報もあるから、備えあれば憂いなしじゃ」、みたいな意見もあるとは思います。この冗長性が有効である場合は、確かにありますが、それは、いつでも、どこでも、欲しいだけ、と言う事が、これまで難しかったから意味があったのです。


もうお解りですね。そうです、ユビキタスです。次回は、「ユビキタスとオンデマンド」で話を展開していきたいと思います。

72.アリと恐竜 (2003/04/14)

恐竜とゴジラを較べたかと思えば、今度はアリと較べるのかとお思いでしょうが、こ の話は、10年ほど前、県の商工会議所か何かの講演会で、江崎玲於奈博士が招待講演をされたものです。おそらく、いろいろなところで講演されておられたと思います
ので、既にご存じの方も多いかと思います。


アリは、頭、胴、腹が、細い首、腰に相当する部分でつながっておりま
す。
一方恐竜や、現在の動物で言えばなどは、首や腰があまりくびれてはおりません。と言うよりは、寸胴であります。小さい虫などで寸胴なものはたくさんおりますから、逆に大きい動物で、アリのようにキュッと締まった首や腰を持った物がいても良い
ような気がします。


では、どうしてアリと同じ様な形の大型動物がいないのか?


例えば、身長1センチメートルのアリと、同じ形で長さで1000倍、身長で10メ
ートルの動物を考えてみます。首は頭の重さを支えなければなりません。頭の重さ は、その体積に比例するでしょうから、長さで1000倍の頭の重さは1000倍の3乗
1000000000倍(10億倍)になります。


ところが、その頭を支える首の太さは面積ですから、長さで1000倍ならばその2乗、つまり1000000倍(100万倍)にしかなりません。つまり、アリが頭を支え るのに較べて1000倍も厳しい条件で頭の荷重を支えなければなりません。


大きな動物は、太い首と腰でなければ、その荷重を支えられない為、アリのよ
うな形の大きな動物は、存在できないのだということでした。
そういえば、人間も太ってくる時には、真っ先に首の周りに肉がついて二重あごになったり、ウエスト周りの脂肪が気になってきますが、これも自然に重さに耐えうる首や腰にしておく為でしょうか?


このような考え方は、パームやノートブックパソコンを比較する時にも、使えるかもしれ
ません。例えば、体積に比例しているリチウムイオン電池の充電容量などは、小さくしていく時には長さの3乗で効いてきますから、小型化による影響が最も大きいものの一つでしょう。その上、CPUクロックを引き上げようとすれば、さらに電池に対する負荷が増えますから、うまく設計しなければ同じ連続使用時間を保つことは出来ません。


ラフで、いい加減な計算をしてみると、ノートブックパソコンが1.3Ghzから1.8GhzぐらいのCPUクロックの場合、電池の容量から考えると、パームは大体100Mhz辺りが妥当かなと思ったりしています。もちろん、ノートブックパソコンとパームは、CPUその物も使い方も違いますので、この通りには行かないでしょうが、コンピューターを小型化していくときの、ひとつの目安として考えなければいけないと思います。


手のひらのコンピューターという形にするためには、多くの技術や苦労の積
み重ねがあったのだろうと言う事を、改めて感じた次第です。

70.恐竜とゴジラ (2003/04/11)

恐竜は、その脳みそがねずみほどの大きさしかなかったと言われています。では、恐竜がねずみほどの知能があったかといえば、そうではなく、もっと知能は低かったそうです。


よく、恐竜は尻尾に噛み付かれても、その痛さを感じるまでに3分ほどかかったと言われています。いくらなんでも遅すぎるような気もしますが、恐竜の動作が考えられているよりずっと遅かったという研究が最近発表されていたように、いろいろとまだ解らないことも多いようです。


数年前のサイエンスに載っていた記事によると、全ての脳みそが知能をつかさどる訳ではなく、実際は体の知覚細胞からの信号を処理するのに、かなりの数の脳細胞が必要になるらしいのです。特に、皮膚にある知覚細胞は数が多く、その信号量はリアルタイムに処理しなければならないので、多くの脳細胞を費やしているそうです。


そのため、知能の高さは、脳みその重量だけで判断するのではなく、脳みその体表面積に対する割合で、判断するのが妥当だそうです。同じ脳みその重さなら、体表面積が小さい方が頭が良いと言うことです。


その観点で、いろいろな人種を比べてみると、西洋人より東洋人の方が、特に中国人が、体表面積に対する脳みその重さが多いそうです。確かに、中国人は昔から火薬羅針盤と言った偉大な発明をし、最近でもコンピューター・サイエンスなどの分野で、活躍する研究者の中での比率が高いようです。


この前、テレビのスポーツニュースで、大リーグに行った松井選手帽子のサイズが、ヤンキースの規定の帽子の一番大きいサイズでも、まだ少し小さかったと言っていましたが、なるほどと頷けます。是非、磨かれた技と頭脳で、大リーグに一大旋風を巻き起こしてもらいたいものです。

62.鉄腕アトムの誕生日 (2003/04/05)

さて、2003年4月7日は、いったい何の日だか分かりますか?(宝塚ファミリーランドの閉園の日ですが、それはさておき、)鉄腕アトムの誕生日という事になっています。


鉄腕アトムがテレビで放映されていたのは、1960年代だと思うのですが、その当時では、40年後には実現していると思われた未来の姿が、今我々の目の前にある現実と言うことです。期待された通りになったと言えるでしょうか?


マンガや映画で想像される未来には、大きく分けて2つのタイプがありました。近代的な超高層住宅が建ち並び、空間を移動する乗り物でその間を自由に行き来すると言った明るい未来のタイプと、核戦争で荒れ果てた都市で、いつまでも戦争を繰り返す暗い殺伐とした未来のタイプです。


確かにアトムの中でも、人間とロボットが争っていましたし、同じ時期の鉄人28号も、かなり破壊的だったと思います。


なぜアトムのような子供向けの番組が、破壊的場面を多く持つか?それは、破壊する方が簡単で面白いからです。怪獣が出てくるウルトラマン系の番組でもそうでしたが、例えば東京タワーが出てくれば壊すためであり、ウルトラマンがその身長を生かし、タワーの建設に従事するというのは、教育的には良いのですが、番組としては進行が遅すぎて面白くないでしょう。昔から、プロジェクトXがあったなら、採用されたかもしれませんが。


結果として、アトムのような子供向け番組では、悪と戦う正義の味方と称して、破壊行為を繰り返したのです。まさに、今のアメリカのように!


明るい未来と言うより、結局は破壊行為をしていたのですから、アトムと言えども戦争の兵器と変わらないと言う事もできます。そう考えれば、アトムの誕生日を迎える今、やっていることはあまり違わないのかもしれません。当たらずとも遠からずという所でしょうか。