583.インド人もびっくり!2: 英語、地方語、標準語 (2006/04/30)

今、中国が世界の工場とさえ言われるようになり、あらゆる工業製品の世界的供給地としての地位を築いています。また同様にインドは、世界のIT産業の一大供給地として注目を集めています。


中国がその人件費の安さを武器に工業化を進めてきたように、インドは英語を標準的に使いこなすところに、IT産業との親和性があると考えられています。


アジア諸国の中で英語のテストをすると、いつも日本は下位に甘んじています。確かに日本が誇る世界ブランドを擁する企業でさえ、ビジネスで使いこなせるほどの英語を話す人は限られています。


あらゆる産業のグローバル化によってますます世界標準語としての英語の必要性が叫ばれる中、小学校教育から英語必修にしなければいけないと言う議論が、以前にも増して盛んになってきました。


そして、英語教育の重要性を訴える意見の一方で、いつも論じられるのが国語教育の重要性です。小学生のうちは英語を学ぶより、国語をしっかり学ぶことの方が大切だという考え方です。


さて、インドは英国による統治以前は国内に標準的な言語がなかったため、英語がその役割を果たしてきました。ヒンドゥー語を話す人口が一番多いとは言え、それさえインド南部では理解する人がほとんどいないため地方語の一つに過ぎません。すなわちインド語(国語)と呼べる言語はないと言うことになります。


インドから来ている2人のエンジニアに聞いてみると、インドでは英語の教育は6才から始めるばかりでなく、授業はすべて英語だけを使うそうです。


では母国語としての教育はどうなっているかというと、それぞれの地方語の授業は必修科目としてありますが、ヒンドゥー語は希望者のみだそうです。ですから、2人のエンジニアはいつも英語で会話していますし、それぞれの地方語はお互い全く理解できないそうです。


つまり、英語が実質的に国語であり、就職の時も英語の能力を試すことはないようです。日本の就職において日本語を問わないのと同じなのでしょう。テレビのニュースは、英語と地方語とヒンドゥー語のすべてで流されているそうです。


英語が唯一国内で標準的に通じる言語であり、しかもそれが最もグローバル化の進んだITの分野でのめざましい躍進につながったと言えるでしょう。


コミュニケーション能力のための言語教育英語だけに集中し、地方語の教育は独自の文化を守るために継続しつつも、最大勢力であっても地方語の一つに過ぎないヒンドゥー語はオプションにするという割り切り方は、なかなか日本には真似の出来ないことです。


私たちは日本語という標準化された言語を持ち、またそれが日本古来の文化を担っているため、国語教育にはどうしても思い入れが強くなる傾向があるように思います。


そのために国語教育に必要以上の時間をかけていたり、いわゆるマニアックな問題を説くことに固執していることがないとは言えません。


小学校教育に英語を必修科目として入れる事を議論するとき、インドでの英語教育について考えてみることは、参考になるのではないでしょうか?


ところで、インドではきれいな英語を話す人が多い反面、すごく訛りのきつい人が多いのも事実のようで、今一緒に仕事をしている男性のHさんもなかなかのものです。普段から英語で会話しているからと言っても、家族の間では地方語を使っているでしょうから、それが訛りが強い理由なのでしょうか?


なぜ訛りが強いのか、明日本人に聞いてみようと思います。(そんなこと本人に聞けるのか?)

582.インド人もびっくり!1: 日本は意外と遠かった (2006/04/29)

インド人と聞けば思わず「びっくり!」するものと思い込んでいる世代ですので、余り意味はないのですがこのようなテーマにしてみました。特にびっくりするような内容ではありませんので悪しからず。


今週から男性と女性がそれぞれ1名ずつ、計2人のエンジニアがインドから来日してまして、一緒に仕事をさせて頂いております。これまで全くインドの方とは接したことがなかったので少し不安だったのですが、お会いしてみるとなかなかの好青年たちで(ただし年齢は不詳ですが)、久しぶりに仕事が楽しく感じる日々を過ごしております。


アジアの中でもインドは日本から距離的に遠いですから、これまで意外と接する機会がありませんでした。女性の方は以前USのテキサスで働いていたことがあったそうですが、インドからUSの東海岸へ行くときは、日本や韓国を経由するよりドイツのフランクフルト経由の方が近いそうです。


確かにそう言われてから地球儀を見てみると、インドから日本に行くのと、ヨーロッパに行くのはそれ程距離が変わりませんし、その後は太平洋より大西洋を越える方が楽なことは確かです。インドがアジアより、ヨーロッパやUSとのつながりを重要視するとしても、仕方がないことかも知れません。


インドと行っても広いですから、地域によってかなり社会性に違いがあるそうですが、南部の一部地域はここ10年ほどで急激にIT産業が発達し、IT開発の重要拠点になりつつあります。日本では中国の動きに目を捕らわれがちになりますが、インドでも技術立国を目指してかなりのテンポで進化を遂げているようです。血液型的にはB型が多い国民性ですから、理科系指向が強いのは頷けます。


よくインドでは技術者の引き抜きが盛んに行われていて、いわゆる仕事の定着率が低いとされていますが、聞いてみるとそうとは言い切れないようです。IT関連の会社自体の成長が激しく、人の入れ替わりが必然的に激しくなるのでそのような認識になっているようですが、日本のIT関連の企業でも同じようなことが言えるのではないでしょうか?


今回来た2人は、日本の連休が近いこともあってなかなか思い通りのフライトの予約が取れませんでした。特に帰りが日本のゴールデンウィークに重なってしまったため、予約には苦労をしたそうです。


インドからシンガポールまで4時間、トランジットで12時間待った後日本まで7時間ですから、丸一日かかっています。シンガポールでの待ち時間が短いフライトもあるようですが、急に出張が決まったため取れなかったようです。


さて、今回彼らは約1週間だけの滞在ですが、日本は初めてですのでいろいろと戸惑いもあるようです。短い期間ですが、この機会に少しでも日本を知ってもらえたら良いなと思います。

572.ミネソタ見聞録11: 人すがら (2006/02/16)

2月5日に日本に帰ってきて、ミネソタのいろいろな場面、風景を思い出しますが、やはり一番印象に残るのはミネソタの人たちです。


メイヨークリニックで機敏に動き回る医師や看護士たち。深夜まで鉄人の如く働き続ける同僚。素朴なミネソタの人たちと出会えたことが、旅の一番の収穫です。


滞在していたホテルは、部屋にキッチンの付いた長期滞在用。安心してワインを買ってきたのはよかったが、コルク抜きが見当たりません。フロントに電話すると、コルク抜きを貸してくれるとの事。早速ワインのボトルを抱えて参上です。


もうお馴染みになったフロント係のおばさまは、さっきからコルク抜きをいじくりまわしている様子で、どうやって使うものかを思案中。フロントにやって来た私にそれを手渡すと、"Engineering Test!"と言ってニタニタしています。


これがなかなか優れ物のコルク抜きで、シールもきれいに取れるし、コルクも「ポン!」と何の苦もなく抜くことができました。


おばさまは、初めてのコルク抜きを一瞬で使いこなした日本の青年(?)に感心して、拍手しています。「日本人は手先が器用だわい!」なんて勘違いしているのではなかろうか。ただの酒飲みに過ぎないのに。


同じホテルの朝食の準備をしてくれているおねえさんは、さすがに長い間滞在している私の顔を覚えてくれて、ある日こんなことをおっしゃいました。


「2,3ヶ月前には10人ぐらいいたのよ。今はあなた一人しか中国人はいないけど。」


日本人も中国人も韓国人も、区別が付かないのは仕方がありません。私にも区別が付かないですから。日本人だと訂正しても、「ああ。そう。」ぐらいのリアクションです。


いつの間にかパソコンが話題になっていて、彼女はそれで毎日英語の勉強をしていると言います。そういえばネーティブの英語ではないので、どこから来たのか尋ねたら、ボスニアとの事。


ボスニアと言えば首都はサラエボ。サラエボと言えばユーゴスラビアと思った私は、「昔、リュブリアーナやザグレブに行ったことがあるよ。」なんて言ったのですが後の祭り。もともと影のある顔立ちが、さらに曇ってしまいました。


ボスニアは、マネーとジョブがダメだと嘆いていました。自分の家族だけがUSに移住したが他の親族はボスニアに残っており、数年に一度、母国に帰る渡航費用で貯金がなくなってしまうらしいです。


どうしてミネソタを選んだかと聞くと、エージェントが勝手に決めるらしく、ミネソタ以外の中西部にも一緒に来た友達の家族が住んでいるそうです。


最後に言い残していった「ミネソタは良い所だ!」とは正に実感なのでしょう。


さて、USの大型スーパーは24時間営業のところが多いので、深夜2時過ぎまで晩御飯抜きで仕事をしている時には、これほどありがたいものはありません。


営業しているといっても、店内の清掃や商品の補充で、至る所に"Wet Floor"の札が立ち、段ボール箱が山積みになっていますから、「買いに来てもいいよ」といったノリでしょうか。


この時間帯のレジには、大抵は陰気なおじさんがいることが多いのですが、なぜかその時は若い女性がレジにいました。朝まで一晩中働いているらしいので、さぞかしアルバイト代の深夜割り増しが付くのかと思いきや、昼間と変わらないと言います。


何か景気付けに気の利いたセリフでも言いたかったのですが、やっと出たのは"Good
Luck!"。


多分彼女にとっては景気がよくなるどころか、訳の分からない日本人が深夜に来て、下手な英語で絡んでいったと思っていたかも知れません。(ほぼ確実!) 


陽気なアメリカ人には程遠いミネソタの人たちに、最初のうちは違和感を感じていました。しかし、時間が経つに連れて、無理に感情を表に出さないところが日本人と似ているのか、かえって居心地がよくなってきました。素朴で頑固なミネソタの人たちに、西海岸や東海岸とは違ったUSの一面を見たような気がしました。

571.ミネソタ見聞録10: ミネソタ最後の夜 (2006/02/03)

ミネソタに来てから4週間がたち、最後のミネソタの夜を迎えています。ミネソタの夜といっても、特に何か違う訳ではありませんが、約1ヶ月の奮闘を振り返ってみると、少なからず感動を感じないわけには参りません。


今日の夕方の気温は-10℃で、やっとそれらしい寒さになってきましたが、4週間の間、日中ほとんど0℃前後だったことで、ミネソタの冬の厳しさを体験できなかったのは、ラッキーでもあり残念でもありといったところでしょうか。


観光で来ている訳ではないので、自由になる時間が多いとは言えませんから、それほど多くの体験ができませんでしたが、それなりに思い出に残る経験ができたと思っております。


とりあえず最初に仕事について振り返ってみます。(実は仕事できていたのでした。)そう言えばまったくこれまで仕事についての記述がなかったですね。最後の週は、夜中の2時まで晩御飯を食べずに働いた後、24時間オープンのスーパーで冷凍食品とサッポロ一番を買って帰り、ホテルで食べながらランドリーで洗濯をしていたという、何とも情けない状況でした。(しかしあの時の味噌ラーメンはうまかった!)


仕事の同僚が、ミネソタの特産であるワイルドライスを見つけたので分けてくれようとしたのですが、農産物を日本に持ち帰るのは困難だと言って断らなければならなかったのが残念でした。特産と言ってもなかなか手に入らないそうです。


一番エキサイティングだったのは、メイヨークリニックの診察体験でしょうか。内科、アレルギー科、耳鼻咽喉科とさまざまな診察を受けることができました。それから途中にいくつかの検査を受けてきました。また近いうちに「メイヨークリニック診察日記」などという特集でお伝えしたいと思います。


「大草原の小さな家」のローラ・インガルス・ワイルダーゆかりの地ツアーも、なかなか面白かったです。ミシシッピー川の流れと同じように、開拓者たちが試行錯誤をしながら、自分たちの定住の地を探し回ったのに思いを馳せるのは、想像した以上に楽しいものでした。もしもう一度訪れることができるなら、冬の枯れた大地でなく、草原生い茂るころに見てみたいものです。


会社の部長さんが、自宅の夕食に招いてくれました。4年前に新築された真新しい家は、総床面積が5000平方スクエアフィート(って何坪かまだ判っていませんが)でまさにドリームホーム!家の裏庭には、オークやチェリー、シュガー・メープルの大木がそびえ立ち、何もかも立派の一言です。USでも羨ましくなるほどの家に住んでいる人は、それほど多いわけではありませんから、豪邸拝見ができたのはありがたいことです。


さてミネソタの最後は、やはりモール・オブ・アメリカで締めくくらなければならないでしょう。金曜の夜ですから、休日ほど多くの人で賑わっているわけではありませんが、それでも十分な人が集まってきているようです。さすがに遊園地の急流すべりは休業でしたが、ジェットコースターは半分ぐらいの人を乗せて動いていました。


さて、明日は飛行機に乗って帰国です。今回USに来た時は、ノースウエスト航空の国際線のアルコール飲料は無料でしたが、この4週間の間に有料になってしまったようです。飛行機に乗る楽しみがまたひとつ消えてしまいました。ビールを飲んで寝て帰るつもりでしたが仕方ありません、機内映画でもじっくり鑑賞することに致しましょう。


それでは10回に渡ってお届けいたしました「ミネソタ見聞録」、これにて終了。(実はかなりヘトヘトだったりして。)

570.ミネソタ見聞録9: 「大草原の小さな家」 (2006/01/29)

昨日、1月28日(土)は大雨でした。大雪も困りますが大雨もまたいやなものです。記録的な暖冬によって、季節はずれの雨になってしまったようです。


NHKが繰り返し放送してきた「大草原の小さな家」は、それほど熱心に観ていた方ではありませんでした。しかし、ここに来てゆかりの地が点在しているのを知ってしまうと、旅行系パームサイトを自認する当サイトとしては無視するわけにも参りません。


本来冬場は雪と氷に閉ざされてしまう地域ですから、ローラ・インガルス・ワイルダー(Laura Ingalls Wilder)に関するミュージアムのほとんどが、5月ごろまで閉鎖されています。NHKのドラマを見ていた人にとって一番人気のあるウォールナット・グローブ(Walnut Grove)でさえも、平日のギフトショップを営業するのみで土日にはすべて閉まっています。


ミネソタ近辺で冬場の土曜日も営業しているミュージアムが、アイオア州の北東部にあるバー・オーク(Burr Oak)にあるというので、大雨の中行って参りました。


途中、ミネソタ州のスプリング・バレー(Spring Valley)に立ち寄ってみました。ここはローラの家族が一時的にアルマンゾの家族の家に身を寄せていたというところで、1年間ほど住んでいたそうです。


博物館としては教会と、その前に当時の別の人の住居が見学できるようになっていますが、5月までは閉鎖とのこと。博物館の場所を尋ねた大雨の中犬の散歩をしていた男性の方が、なかなか感じのよい紳士だったのが印象に残っています。こじんまりとして落ち着いた素敵な町だったと思います。


そこからバー・オークに向かいましたが、このあたりにはアーミッシュ(Amish)が住んでいるらしく、ハイウェイにも「馬車が通るので注意」という標識が立っています。なるほど馬の糞らしき物体が、所々に転がっています。


バー・オークは、州境から程近いアイオア州にあります。ここも今はとても小さな田舎の町ですが、当時は一日に200台の幌馬車(Wagon)が町の大通りを行き交ったと言います。


ローラの家族が住んだ住居のうち、現存するものは2軒しかありません。またそのうちの1軒は、場所を移転しているそうです。バー・オークにあるローラの父さんが共同のオーナーになったという「マスターズ・ホテル」(Master’s Hotel)は、同じ場所に現存する唯一の建物になります。


ホテルの向かいに建つ、バー・オーク・バンク(Burr Oak Bank)の建物が保存教会の建物になっています。それはそれで昔の銀行を再現した歴史的に面白いものですが、中はギフトショップになっていてホテルのツアーもここで申し込みをします。


私が訪れたのは14時過ぎ。ちょうど2家族にツアーの説明を始めたときでした。運良くそのツアーに参加することができ、早速ツアー料金の5ドルを支払います。


ローラの家族がアメリカを転々と移動しながら、生計を立てていた旅程が地図を使って説明された後、ホテルへと移動します。1階にはパーラーとフロント、それに金持ちが一人で長期間泊まっていたという寝室がありました。ローラの直筆の手紙や、当時の幌馬車の生活が壁や床に所狭しと展示してあります。


幌馬車では1日に10マイル(16キロメートル)ぐらいしか進めなかったそうです。当時ホテルは町に3件しかなく、ひとつのベッドに3人がいっしょに寝ていたそうです。ひとり1泊25セントという値段表が入り口に掛かっていました。


2階はほとんど屋根裏部屋といった感じですが、4つの客室があり、そのうちのひとつにはローラの先生が住んでいたそうです。当時の旅行かばんや靴、寝具などがそのままの形で展示されています。


階下には台所とダイニングがあり、ローラたちが暮らした部屋がその奥にありました。当時の風呂は金属製の大きなタライといった感じで、お湯を沸かしていた台所のストーブに近い所に置くため、ちょうどローラたちの部屋の前にあったそうです。宿泊客は同じお湯を使い回しながら入ったそうです。


ローラの部屋は8畳程の部屋で、当時は3姉妹がいて5人家族でしたから、ほとんど雑魚寝状態だったと思われます。マスターズ・ホテルでの生活がローラの回想録にほとんど登場しないのは、きっと思い出したくないほどつらいものだったに違いありません。


ローラの家族の4番目の子供は男の子でしたが、生まれて9ヶ月で亡くなったそうです。ウォール・ナットグローブからの途中マンケート(Mankato)の病院で亡くなったそうですが、その男の子のお墓は見つからないそうです。


同じツアーに参加していた家族には、それぞれ小さな子供が2人ずついて、どうも御知り合いのご様子。しかもどちらの奥様も、黒い布でできた帽子を付けておられました。(アーミッシュの方たちだったようです。)


ツアーで説明してくれた女性は、ここのローラ・インガルス・ワイルダー保存教会の方で、ボランティアではなく給料が出ているそうです。日本からも多くの方が見学に来るということでした。観光客が少ない冬場は、ミュージアムの運営が資金的に困難であり、他の町にあるローラのミュージアムでは休業のところが多いそうです。


さて、バー・オークを後にしてぺピン(Pepin)へと向かいました。先週ぺピンの隣町まで行きましたが、再度ワバシャ(Wabasha)からミシシッピー川を渡りました。


ネルソン(Nelson)の町にある、前回は通り過ごしてしまったネルソン・チーズ・ファクトリー(Nelson Cheeese Factory)に立ち寄ってみました。ウィスコンシン州は酪農が盛んだそうです。


地元のチーズを試そうと思い、それらしいチーズ(Brie)を手に取ってウィスコンシン州産かどうか聞いてみたところ、それはヨーロッパからの輸入品だと言われてしまいました。そこで、ラベルにはっきりと”Made in Wisconsin”と書かれた"Smoked
Farmer"
というチーズを、4ドルほどで買いました。


さて、そろそろ日没も近づいてきました。ぺピンに行くと案の定、ミュージアムは5月からでないと開いていないとのこと。ただしローラの生家を再現した建物(Littele Hose wayside)は見学できると聞いていたので、近くのガソリンスタンドで場所を確認して行ってみました。


7マイル山奥に入っていったらありました。うーん、マイエンフェルトで見たハイジの家にそっくりです。建物は典型的な丸太小屋で、外から覗くと3つの部屋に分かれているようでした。「大きな森」とローラが回想した周りには森と言えるような木々はなく、開拓されたあとの姿が広がっていました。


そこに書かれていた説明には、ローラの父が、確かにここの土地を所有していたという記録が、地元の裁判所に残っているそうで、1867年2月7日ローラがこの地で産声を上げたことは、間違いなさそうです。


ミネソタに住んでいる人に聞くと、ほとんどの人がローラの話は知っていても、ローラゆかりの地を訪れた人は、私が聞いた範囲では(とても限られた範囲ですが)一人もいませんでした。近いのでいつでも行けると思うからかもしれません。


あるいは、自分のおじいさんやおばあさんがローラと同じ世代で、同じような話をよく聞かされ続けて来たのでしょうか?「大草原の小さな家」に登場する話は、ミネソタに生きる人たちにとっては遠い過去のお話ではなく、ごく身近な親族が体験してきた現実なのかもしれません。