171.北米大停電に思う (2003/08/16)

突然起こった電力ネットワークの壊滅。現代の社会において、その影響の大きさはテレビのニュースだけでは伝わりきらないほど、インパクトの大きなものだと思われます。


関東地方の電力危機が予想されてきましたが、冷夏の影響もあり、今のところ事なきを得ています。日本と北米地域の電力の余剰率の違いがあるのでしょうか?もし、同じ事が日本の電力ネットワークで同じ規模で起こったならば、日本の半分近くが影響を受けることになり、日常生活は言うに及ばず、経済活動に対する影響が甚大であったと予想されます。


158.スケールフリーネットワークにおいて、「ネットワークはハブへ攻撃されると弱いが、突発的な事故に対しては強固である」と言われています。しかし今回の停電では、バックアップをするために余分な負荷がかかり、ハブが次々に転けていくと言った現象が起こったわけで、影響が広範囲に広がらない様に、ハブ同士を迅速に切り離すネットワーク管理が重要であることを示唆しています。


大停電と言えば、1998年1月USとカナダの北東部を襲ったアイスストームを思い出します。ケベック州で高圧送電線の鉄塔が倒壊するニュースの映像を、覚えられている方がおられるかもしれません。


冬季の嵐と言えば、雪が吹き荒れるスノーストームが普通ですが、アイスストームはこれと違って、雨が降ってくるのです。雨が降って来てアイスストームとは少し変ですが、これにはやはり異常な気象条件が必要になります。


一般的に、上空の方が地表より温度が低く、上空で雪が生成された場合、地表の温度が低ければ雪のまま降ってきますし、地表の温度が高ければ融けて雨が降る訳です。


ところがこれとは逆に、上空の温度が高いにも関わらず地表の温度が低くなる雨が降った後で地表で凍り付く事が起こります。しかも、地表での温度がマイナス20℃程になると、雨の滴が垂れ落ちる前に凍り付いてしまいます。その為、どんどん氷が厚く積み重なり、高圧送電線を倒すほどの重さになってしまうのです。


帰宅時に、車が全面氷付けになっており、ドアを思いっきり力を入れてバキッと開けて乗り込むと、フロントウインドーガラスがすごく分厚くなっています。試しに、横の窓を開けてみると、下がっていくガラスの外側に、もう一枚のガラスがあるように見えます。大体8ミリぐらいの厚さの透明な氷が張り付いていました。ラジオのアンテナも、1.5センチぐらいの太さになっています。走り出すと、車の何と重たいこと!


樹氷は氷と書きますが、実際は樹雪がほとんどです。本当の樹氷ガラスで出来た木のようで、その美しさは筆舌に尽くし難いものです。


その美しい樹氷に見とれているのは良いのですが、同時に氷の重さで多くの電線が切れて道路に垂れ下がり、停電している地域があります。真冬の厳寒時に停電になると、暖房装置が例えガスなどの燃料を使うものであったとしても、使うことが出来ません。


停電地域の住民は、避難所として解放されているホテルに泊まったり、隣の州の親戚の家に避難したりします。このようなときは、昔ながらのまきを使った暖炉ストーブが、一番信頼できる暖房器具となります。今回の北米大停電が、真冬のことでなかったのは不幸中の幸いです。


電力やガスのインフラ、情報のネットワークなど、一つのものに頼りすぎると、いざというときにすべての機能が停止してしまいます。電力が途絶えた時でも生活が続けられるように、日頃から対策を講じる必要があるでしょう。


パームでも、同じ事が言えるかもしれません。あまり1台のパームですべてをこなそうとすると、それが使用出来なくなった時の影響が大きくなります。携帯やパソコン、パームをうまく使い分けておけば、どれかが使えなくなった時でも、補助的に他の機器がカバーする事ができます。


持ち運ぶには1台ですべてカバーできる、スマートフォンのようなオールマイティのパーム機も良いのですが、重たくかさばると憂いながらも2・3台のパームや携帯電話を常に持ち運んでいる方が、危機には強いと言えるかもしれません。携帯電話等と共存して行くのもありかなと思った次第です。

168.戦争の傷跡5: あとがき (2003/08/10)

人々の解釈は様々です。これらの戦争の傷跡を訪れても、すべての人が同じ感想を持つとは限りません。


広島の原爆に関しても、核兵器の問題を強く意識する人もいれば、戦争そのものの悲惨さを感じる人もいるでしょう。実際に自分の家族が犠牲になった人には、弔いの意味もあるでしょう。相手国に対する反感を強く感じる人もいるかもしれません。


アンネ・フランクの家テレジンは、ナチス・ドイツの狂気に満ちた歴史を物語っているのには違いないのですが、それを単にゲルマン民族至上主義に走ったドイツ国民固有の問題と見るか、戦争における民族主義の過激化が戦争における日常であると解釈するかは、分かれるところだと思います。


私は訪れていないので今回は紹介していないドイツ国内の捕虜収容所跡は別にして、どの施設も自国が犠牲になったものばかりです。例えば日本国内に今も残されている毒ガス製造の設備などは、戦争の傷跡として公開されるべきものであるかもしれません。しかし、これはなかなか難しいことです。ドイツが自国の捕虜収容所跡を公開している姿勢の非凡さを、改めて感じます。


アリゾナ・メモリアルで、自分が日本人であると言うことは、少なくともその場においてはうれしいことではありません。実に居心地が悪い訳です。広島にアメリカ人が行ったとしても同様でしょう。ただ、これらの大きな傷跡を残してしまった事を事実として認めながら、平和な世界をどのように作り出していくか、お互い知恵を絞っていくことが大切だと思います。人類には、知恵がある筈です。


最後に、参考になるインターネットアドレスを、いくつか記しておきたいと思います。


167.戦争の傷跡4: アリゾナ・メモリアル (2003/08/09)

もし、あなたがハワイのワイキキに行って、あまりの日本人の多さにうんざりしたならば、アリゾナ・メモリアルは格好の避難場所になるでしょう。ここで、日本人に出くわすことはですから。1994年9月に私が行った時も、日本人には一人も会いませんでした。


ホノルル空港からわずか2マイルしか離れていない、真珠湾の中のフォード島にアリゾナ・メモリアルはあります。1941年12月7日、午前8時から10時までの2時間の攻撃によって、戦艦アリゾナ沈没して完全喪失したのを始め、戦艦オクラホマ転覆戦艦カリフォルニアウェスト・バージニア沈没戦艦ユタ転覆戦艦ネバダ座礁しました。


これら以外にも、被害は甚大であったようですが、同時に日本軍にも多くの犠牲を伴いました。一説によると、真珠湾は浅瀬であるため魚雷が使えず戦艦には安全であると考えられていましたが、旧日本軍が開発した、投下後すぐに浮かび上がる事により浅瀬でも使えるようにした魚雷によって、攻撃されてしまったと言われています。


USS戦艦アリゾナは、弾薬庫に点火したため被弾からわずか9分足らずで、1,177名の乗組員を巻き添えに沈没したと言います。アリゾナ・メモリアルの建物は、その沈んだ戦艦の残骸を跨ぐようにして作られており、対岸のビジターセンターからボートによって訪れることが出来ます。


50年以上たった今なお、沈んだ船体からは、当時の燃料である重油が、時折ポッカリと浮いてくることがあります。船体に閉じこめられたが抜け出すように、こっちからポッカリ、また向こうでポッカリ浮かんでくる油を見ていると、私達に何かを語りかけ訴えているように思えてきます。


正義の名の下に今も行われ続けている戦争。人類の知恵を結集して戦争だけは避けなければいけないと、アリゾナ・メモリアルは私達に警告を発しているのに違いありません。

166.戦争の傷跡3: テレジン (2003/08/08)

テレジンは、プラハの北西、車で1時間足らずの所にあります。元々プラハにはユダヤ人の居住区があり、今なお新旧シナゴーク(ユダヤ教会)があります。テレジンの捕虜収容所には、ユダヤ人とプロテスタント、政治犯などが収容されていたそうです。


1989年の5月、2度目のヨーロッパ旅行で当時の東ヨーロッパを旅行しました。プラハからのどかな田舎道を走ると、突如として白黒の縞模様の入り口が見えて来ます。すぐ前の駐車場に止めても、特に観光地と言う感じではなく、案内標識一つありません。しかし、その異様な縞模様の入り口が、ナチスのものであった事を自ら物語っています。


中にはいると、すぐドイツの捕虜収容所の決まり文句である、「ARBEIT MACHT FREI」(働けば自由になる)のアイアンレースが目に入ります。そのゲートをくぐるには、今なお少なからず威圧感を感じてしまいます。


捕虜が収容されていた部屋は、小学校の教室ぐらいの広さでしょうか。そこに、三百人ぐらいが収容されていたようです。部屋の隅には、トイレであったであろう配管が残されています。そのような部屋がいくつも並んでいます。勿論、独房拷問室などの建物もありますが、どれほど悲惨であったかは計り知ることもできません。


よく怨念とか魂とか言いますが、全く感じない私でさえも、ただならぬ気配を感じます。どこからとか何かがではなく、その中にいる私の存在そのものが、打ち消されているような、負のエネルギーのようなものを感じます。


この収容所には、ガス室はなかったそうですが、遺体の焼却炉が残っており、多くの死体が焼かれていたことを物語っています。施設の一番奥のコンクリートの壁の前では、多くの処刑(銃殺)が行われたそうです。コンクリートには、一つ一つの弾痕が判らないほど多くの傷跡が刻まれています。


不思議なことは、今訪れてもその中にいる間は、外界の事が全く遮断されていることです。建物の構造がそのように出来ているからでしょうが、異様なほどに隔離されている感覚は、それまで感じたことがありませんでした。


建物の外周には、土塀のように巡らされたものがあり、その入り口の近くに、死体置き場であった洞穴がありました。一瞬躊躇しましたが、中に入ってみました。20畳ぐらいの広さでしょうか。一つだけ明かり取りの穴が開けられたその中には、いまだにうごめく気配があります。


その死体置き場から、土で出来た穴がずっと続いています。少し先に明かりが見えるので、数十メートルの穴だと思い腰をかがめながら歩いて行くと、明かりが見えたのは小さな明かり取りの窓からで、ずっと先まで続いています。引き返すことも出来ずにひたすら歩いていくと、200メートルは歩いたでしょうか。出て来たのは、先ほどの銃殺に使われたというコンクリートの壁の前でした。おそらく銃殺の後の死体を、運ぶための通路だったのでしょう。


私達が行った当時は、個人旅行の情報は地球の歩き方ぐらいしかなく、そこに掲載されていたドイツ軍の捕虜収容所は、アウシュビッツテレジンぐらいだったと思います。


後になって調べてみると、ミュンヘン郊外のダッハウの捕虜収容所や、そのほか10カ所ぐらいのドイツ国内の捕虜収容所跡が、公開されているようです。


アウシュビッツ(これはドイツ名)はポーランドですし、テレジンチェコです。しかし、ドイツ国内のナチスの捕虜収容所が、ドイツ国民によって公開されていると言うことに、過去の過ちを認め二度と過ちを繰り返さないと言う、ドイツ国民の強い意志を感じない訳には行きません。


我々日本人が、他国民の非情を訴えるだけでなく、自分自身の過ちを認めることが出来る日は来るのでしょうか?

165.戦争の傷跡2: アンネ・フランクの家 (2003/08/07)

アンネの日記を初めて読んだのは、おそらく小学校の高学年の頃だったと思います。その後、大阪の松坂屋で、アンネ・フランク展なるものを見る機会がありました。ユダヤ人の髪の毛で織った絨毯に、心を締め付けられる思いをしたのを覚えています。


1987年に新婚旅行でオランダに行った時に、アンネ・フランクの家に行きました。アムステルダム駅から歩いて10分ぐらいのところにありました。すぐ横をきれいな運河が流れ、運河観光の船が行き来しています。


昔、ネスカフェの宣伝で見た事のあるような美しい風景の中に、その家はありました。現在では、建物の傷みが激しくなって来た為に、見学のルートが変わっているそうですが、以前は比較的ありのままの姿を見る事ができました。アムステルダムの典型的な町屋である建物の構造も、一見の価値があるようです。


裏の隠れ家への入り口であった本棚を潜り抜けると、様々な備品が当時の様子を物語ってきます。アンネが姉と、身長の伸びをしるしを付けて記録した柱の跡に、実際にここに住んでいたのだと実感させられます。


アムステルダムの街は思ったよりも小さく、2つの正教会の鐘の音が街のあらゆる所から聞こえ、いかにもヨーロッパの古い街にいる事を知らされるのですが、アンネの家の一番上にある窓からは、裏庭西教会の塔が見えます。


おそらく、時が経っても変わっていない風景は、ナチスに連行された時と同じものだったに違いありません。その窓の風景を、しばらく眺めていました。教会の鳴り渡る鐘の音を聞いていると、過去に引き戻されてしまうのではないかとさえ思えてきます。


アムステルダムには、あとレンブラントの生家があったり、王宮と美術館がある程度で、それ程見所が多い訳ではありません。しかし、もしこの街に滞在する機会があれば、是非アンネの家を訪れる事をお勧めしたいと思います。