456.Mac miniは何をもたらすか? (2005/01/13)

Mac miniのニュースが駆け巡っていて、もう大変な騒ぎです。そして、ニュースを見てもパーム系サイトを見ても、この新製品に好感を持った人が多いようです。新製品には冷静な私も(貧乏とも言う)、今回は心ときめくものを感じます。


これまでMacに興味はあったけれど、Windowsの呪縛から抜けることができなかった人たちには、その値段とコンセプトが鋭く心に突き刺さるようです。


Windowsパソコンをリプレースすることを最初は狙わず、WindowsとMacがそれぞれの得意分野に徹して共存を図ろうとする戦略は見事です。オフィスでの仕事を家庭に持ち込むことに成功したWindowsパソコンを、根底からひっくり返そうとはしていないように見えるところが、今回の新製品の狙いなのでしょう。


仕事の為の道具であったWindowsパソコンが、次第に画像音楽を処理できるようになり、なんとなく家庭に入り込んで来て、あたかも家電であるような素振りをしてきましたが、そろそろ限界かも知れません。


これほどまでにインターネットが普及し、音楽や映画がデジタルで配信されるようになってくれば、仕事の為に設計されたパソコンを流用するのではなく、ホームエンターテインメント専用に設計されたマシンが欲しくなるのは、時間の問題であったのです。


Windowsパソコンと共存することを狙ったことによって、Mac miniの機能を家庭の娯楽に特化できますから、中途半端な仕様になってしまうことを避けることができます。


Mac miniは、ディスプレーとキーボードが付いていないと言うのも、鋭いところを突いています。Mac mini本体の価格を抑える事ができる以外にも、大きなメリットがありそうです。


ディスプレーとキーボードは、パソコンのパーツの中では一番スペースを取ります。Windowsのデスクトップパソコンを置いたままで、さらにもう一台のパソコンをフルセットで置くには、新たに場所を確保しなければなりません。


ディスプレーとキーボードを共用すれば、Mac miniの本体だけをこれまでのパソコンに並べて置くだけで済みますから、スペースをさほど増やさずに設置することができます。


さらに新しいMac miniの斬新なデザインによって、隣に置かれた無骨なWindowsパソコンが時代遅れに見えてくることでしょう。Mac
miniの先進性を見せ付けるためにも、ディスプレーとキーボードを共用することが必要なのです。


家庭で誰もが気軽に使うことができる、本格的なホームパソコンの普及は、まだこれからと言えるでしょう。Mac
miniによって家電としてのホームパソコン市場が開拓され、これまでのパソコンの勢力図が大きく塗り替わることを期待します。


ビジネス用のパソコンを使うのは仕事の時だけにして、ホームエンターテインメントにはもっと夢のあるパソコンを使ってみませんか?

451.明けましておめでとうございます (2005/01/04)

明けましておめでとうございます。2005年もどうぞよろしくお願いいたします。


年々、お正月の厳粛な雰囲気がなくなってきて単なる休日になりつつありますが、それはそれで国全体が一斉に休みを取る事ができることだけでも、お正月らしいと言えるでしょうか。


お正月なら何でもありがたいと言うことで、「初日の出」に始まり、「初夢」「初詣」となんとなくめでたい気分にさせるところはさすがです。これに最近では「初売り」も仲間入りして、福袋も飛ぶように売れてたそうです。


「買い物する門には福来る」と、大型店舗で元旦から始まった初売りセールも定番となりました。福袋と聞けば、何となく得をする気になってしまいますが、中を見せずに売ってしまうあたりは在庫一掃的な狙いもありそうです。全ての福袋に福が詰まっているとは限らないようです。


元旦から3日に掛けて、りんくうプレミアムアウトレットとダイヤモンドシティー、ららぽーと甲子園と初売りセールを駆け回っておりました。昔の厳かなお正月も懐かしいものだと思ったら頃には、三が日は既に終わっておりました。


今日4日から初仕事ですが、電車もかなり空いていたところを見ると、本格稼動は今週後半以降の模様です。


2005年は変化がいろいろとありそうな予感が致しますが、楽しくなるような変化が続けば良いですね。また今年も皆さんと一緒に、生活を豊かにする可能性を模索したいと思います。


どうぞ、今年もお付き合いいただきますよう、お願い申し上げます。

442.技術とマナーを同時に磨く (2004/12/28)

電車の中の優先座席付近や禁止区域では、携帯電話をマナーモードにするのではなく、電源を切るようになりましたが、果たして何割の人が実行しているのでしょうか?


なかには優先座席に座りながら、大声で携帯電話で話している人がいたりします。(大阪のマナーが悪いからか?)禁止区域以外でも、大きな着メロを鳴らしながら平気で通話している人を必ず見かけます。


勿論、ルールとして守っている人も多いでしょう。通話を済ませてから乗車する人もいますし、乗車中に着信情報だけを確認している人もいます。ただ、傍若無人に携帯電話で通話している人がいる限り、我慢し続けている人には不公平感が残ります。


そもそも自動車電話から始まった移動通信ですから、携帯電話も移動しながら使わなければ価値が半減すると言えます。PHSは高速に移動しながらでは使えませんから、携帯電話が使えると言うことは優れた特長です。


携帯電話に掛かってくる電話に、緊急を要する重要なものがほとんどないことは、電車の中で大声で通話しているのを聞いていると(イヤでも聞こえてくるのです)良く分かります。しかし、せっかく移動中に通話できる技術があるのですから、それを生かすための方法はないのでしょうか?


私は、小声での通話なら決して迷惑だとは思いません。携帯電話はかなりの小声でも通話することが出来ます。「428.通話と会話のどちらが迷惑? 」の雑記にも書きましたが、迷惑さにおいては会話と通話は大差ないように思います。


それにも増して、現在の電車の中での通話の状況を見ていると、人間というものは電話が鳴れば緊急の電話かも知れないと考えたり、出なければ相手に失礼になるのではないかと考えたりするのは、ある程度仕方がないことなのかと思えてきます。


今、日本の鉄道のいくつかの場所で、列車内無線LANの実験が行われています。目的は、司令所と各列車の間の情報の交換だったり、車内からの高速通信の可能性の検証だったりしますが、いずれ列車内がホットスポットになるかも知れません。そうなれば、無線LANを使ったIP電話を、電車内で無制限に使うことが出来るようになります。


ただし、通話の声の大きさは、何か考える必要があるかも知れません。例えば、小声で話しても自分の声が大きく自分に聞こえるようにすれば、大声で話すと自分がうるさいですから、否が応でも小声になります。


世の中を便利で快適にしていくためには、技術を磨くだけでなく、マナーも同時に磨いていかなければならないのでしょう。

432.極悪人と微悪人 (2004/12/16)

最近、極悪非道な事件が増えておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。とんでもなく悪いことを繰り返す極悪人は、誰でも早く捕らえて欲しいと思うのですが、そこは極悪ですからなかなか捕まらないのです。警察の奮闘を期待したいところです。


一方、普段はほとんど善人なのですが、たまに小悪魔が耳もとでささやいたがために、少しだけ悪いことをしてしまうことがあります。この場合、微悪人と呼ぶことにします。ルール違反をしてしまう場合と、マナー違反をしてしまう場合があるでしょう。


日本の場合はマナーと言えば「行儀」「作法」と訳しますから、どちらかと言えば非日常的な状況での振る舞いと捉えがちです。例えばお茶の作法等は、本来日常の生活の中で活かされるべきでしょうが、実際はお茶室という特殊な状況下での振る舞いが対象にされます。


「お行儀良くしなさい」とは良く言われたものですが、これも普段よりかしこまった状況で使われたものです。(ところで最近は、行儀などと言う言葉をあまり聞かなくなりましたね。) テーブルマナーもしかり。


対してマナーを大切にする西欧の国では、些細なルール違反をそこに居合わせた人が注意することが多いようです。車を停めようとしていると、「そこは停めてはいけない場所ですよ」と言われたり、写真を撮ってはいけない場所でカメラを構えたら、「ここは撮影禁止ですよ」とすかさず注意されたり。


これらはマナー違反ではなくルール違反ですから、やってはいけない事なのですが、誰もがルールを守ることに注意を払い、また努力もしているように思います。


また、注意された人も決して悪びれる様子もなく、ルールに気付かなかったことを詫び、教えてもらったことに感謝して笑顔を返すのです。


逆にマナーを守らない人に対しては、注意をするのではなく、軽蔑の眼差しを向けるようです。


日本では、逆切れされる恐怖が先にたって、余程の命知らずでない限り注意するのを躊躇してしまいます。警察には極悪人を捕まえることに専念してもらうことにして、微悪人には居合わせた人が恐怖心なく注意できるような社会を作りたいものです。

428.通話と会話のどちらが迷惑? (2004/12/13)

少し前の「416.車内迷惑十傑 (2004/11/26)」の雑談で、混雑した電車の中で迷惑なものを取り上げたことがありました。狭い場所では周りに発散される全てのものが、近くにいる人には迷惑になり得ると言う話だったのですが、その中の話し声について最近思うことがあるのです。


皆さんは「会話における話し声」と、「携帯電話で通話中の話し声」のどちらが周りに迷惑であるとお考えですか?あるいはどちらをよりうるさいと感じますか?


よく通話は会話の片方しか聞こえない不自然な会話であるため、通常の会話より不快感が増すと言われます。しかし、二人で会話している場合でも、一方の声だけが聞こえて相手の声が聞こえないことがあります。


電車の中で、さっきから大声で携帯電話を使っている人がいるなと思って振り返ってみると、電話で通話していたのではなく、大声の人が小声の相手と会話していたなんてことがあったりします。


では、その時あなたは、小声で会話する人にもっと大声で会話して欲しいと思うでしょうか?「そんな小声で話すから、携帯電話を使っているのと勘違いしてしまいました。もっと会話らしく相手と同じ大きさの声で話してください。」 と。できれば小声の人はそのままで、大声の人に静かになってもらったほうがより快適になるでしょうね。


私が利用する電車では携帯電話での通話が制限されていますが、相変わらず多くの人が携帯電話で通話しています。大声で通話していて離れていても迷惑だと感じることもありますし、小声で話されていて近くにいても通話中であることに気付かないこともあります。


携帯電話で小声の通話をするより、大声を撒き散らす会話の方がより迷惑なのではないでしょうか?確かに携帯電話で話す人の声は大声になりやすいの傾向はありますが、「携帯電話の通話」であろうが「人と人との会話」であろうが、大声はうるさいものなのです。


それならば、電車で制限するのは携帯電話であるか会話であるかに関わらず、「大きな声」を制限するべきでしょう。


もし小声の通話が迷惑でないとしたら、混雑した車内での小声での携帯電話の使用を禁止する理由はありませんし、電車で携帯電話を使いたくてもこれまで我慢してきた多くの人たちには、小声での通話が認められればそれに越したことはありません。


ただし、心臓ペースメーカーの誤動作を防ぐ意味での携帯電話禁止に関しては、特定の場所では通話やメールの制限ではなく電源オフが求められていますから、これはこれで徹底的に守られるべきでしょう。


電車内での携帯電話による通話の制限がなくなれば、いつでもどこでも着信・発信ができる携帯電話本来の機能を生かすことができます。マナーを守りながら携帯電話を有効に利用することは、将来のユビキタス・コンピューティングにもつながっていくのではないでしょうか?