私の母は、戦時中伊丹空港の近くに住んでいた為空襲がひどく、祖父の実家があった広島の田舎に疎開しておりましたが、そこから広島に投下された原爆のきのこ曇を見たと言います。
「ピカドン」の衝撃を私が実際に感じたのは、小学校2年の夏休みに平和記念資料館を見学した時でした。それまで母から、焼い弾による空襲の話や、疎開先での苦労話などを聞いていた私でしたが、原爆の数々の展示品を見た時、それまでに感じた事のない恐怖心に駆られたのを、今でも鮮明に覚えています。
特にグニャリと曲がった醤油ビンと、小学生が着ていたと言うランニングシャツは、脳裏を離れる事はありませんでした。最近になって、地元の市役所で数十点の原爆関係の資料の展示がありましたが、やはり実際に投下された広島で見る、圧倒的な数の展示品を目の前にした迫力にはかないません。
平和記念公園に折り鶴が絶える事なく捧げられている事を知ったのは、パームボンチの特集「あなご飯を食いに広島に行った。」を読んだ時でした。このちんさんの旅行記は、まだ読まれていない方には是非一度読んで頂きたいのですが、その後話しを聞くと、私の子供が通う小学校の修学旅行は、折り鶴を持って広島に行く事になっており、その為に毎年6月頃に全校生徒で折り鶴を折っているそうです。意外と身近な話しだったようです。
ところが先日、とある学生のいたずらによって、14万羽もの折り鶴が焼失し、その大学の学生や関係者がお詫びとして、今日の早朝、完成した9万1千羽もの折り鶴を捧げられたと言うニュースです。驚いた事に、その大学の教授が私が小学生の頃にお世話になった方であったのですが、それはさて置き、何か今もって大きな力が、広島には存在していると感じるようなニュースだったと思います。
第二次世界大戦の傷跡は、世界中に存在しています。中国や韓国には、旧日本軍が残した建物があったり、記念碑があったりします。グァムに新しくできた水族館に行けば、熱帯の魚が泳ぐ水槽に旧日本軍の戦闘機が沈められていますし、オーストラリアに行けば、旧日本軍の人間魚雷が雨ざらしで展示されていたりします。
ただ、日本人は観光で他の国に行っても、ほとんどそれらの傷跡には立ち寄ろうとはしません。日本のガイドブックは、遊びの観光スポットは全て網羅していても、それらの日本の歴史を見せようとはしないのです。
同様にアメリカ人で広島を訪れる人は、そう多くはないでしょう。その為にはある程度勇気が必要であり、しかも冷静でなければなりません。時と共に忘れ去られる過ぎ去った過去ではなく、今なお重くのしかかる歴史なのです。
今回の特集では、私が訪れた事のある第二次世界大戦の記念館を、訪れた順に紹介したいと思います。