546.マイクロソフトの野望 留まる所を知らず (2005/09/27)

パーム次期スマートフォンのOSに、マイクロソフトウィンドウズを採用するというニュース。パソコンのOSの覇者となったマイクロソフトが、携帯電話のOSの分野に本格的に乗り込んでくるようです。


これまでPDAのOSにおいてライバル同士だったパームとマイクロソフトが手を組むと言う事で、新しい時代の幕開けを期待したいですが、要はパームがパームOSを見限ったと言うことですから、マイクロソフトとしてはライバルがひとつ消えたことになります。


もちろんAccess社に買収されたパームソースが、今後も携帯電話の分野でパームOS製品を出してくるでしょうが、携帯電話では国際標準から外れた日本市場の枠に閉じ込められてしまうのではないかと思われます。


パームがいかにパームOSを今後も継続して製品に採用していくと言っても、パームOSのPDAあるいは携帯電話機におけるシェアーの低下は避けらないでしょう。


リナックスがPDAや携帯電話のOSとして取りざたされてきましたが、一方のウィンドウズが着実に地盤を固めようとしています。パソコンの販売台数が世界的に頭打ちになっている中、新しいウィンドウズの適用分野としてモバイルの主流である携帯電話の分野を重点的に攻めるのは当然のことでしょう。


20年ほど前はオープン・アーキテクチュアーなどの言葉がもてはやされ、オープンこそが新しいコンピューティングの姿であると信じていたものが、時が経ってみれば結局以前にも増して閉ざされた、1社独占による競争のない世界になっていたとは皮肉なことです。


やはりOSと言うのは一種のメディアとしての性格を持つのでしょうか。OSを製品として供給する企業が存在する限り、健全な発展はあり得ないように思います。複数の企業が切磋琢磨しながらよりよい製品を目指すという一般の工業製品とは、異なるコントロールが必要なのではないかと思います。


メディアは社会の共有財産でなければなりません。そこに人々が知恵を出し合い、よりよいものに高めていくことが望まれるのです。


コンピューティングと通信の融合は、マイクロソフトに全てのモバイル機器のOSを独占することを許すかもしれません。これは、健全な競争に基づく市場経済の目指すところではありません。


このニュースを聞いて、パームがウィンドウズを採用することに新たな展開を期待する人もいらっしゃるでしょう。


しかし、私個人的には、少なくともモバイル環境においてウィンドウズの対抗勢力のひとつであったパームが、スマートフォントというお土産を持ってマイクロソフトの軍門に降る事は、非常に残念でなりません。


近い将来訪れるユビキタス社会を実現するために、パソコンをさらにダウンサイジングし、通信をも取り込んだ手のひらサイズの端末に、パームはなっていたはずだったのです。


私にとってのパームは、終わったのかもしれません。

545.パームOSに期待していたこと (2005/09/14)

ACCESS社によるPalmSource社買収のニュースは、パームコミュニティーにかつてないほどの衝撃を与えました。


もう今は落ち着きを取り戻して来たように見えます。しばらく時間がかかるであろう携帯電話とパームOSのコラボレーションの発表まで、固唾をのんで待っていようというところでしょうか。


このニュースは概ね好感を持って迎えられたようです。パームOSの復活、しかも携帯端末の主流である携帯電話への参入が約束されたようなものですから、この機会に大きく飛躍出来ることを願っている人も多いことでしょう。


確かにパームOSが、今後Linuxベースになろうとも、携帯電話のOSとして普及することは喜ばしいことでありましょう。例えすばらしい技術・製品であっても、多くの人に利用されてこそ価値がありますから、飛躍的に利用者が増える可能性を持った携帯電話の分野に進出できることは、パームOSにとってまたとないチャンスに違いありません。


一方、従来のパーム製品としては、取り残されてしまったUSのPalm
Inc.の今後の動向を見守るしかありませんが、OSとしてパームOS以外の採用も長い間噂されてきました。


パームOSが携帯電話専用OSになろうとも、ハンドヘルド・コンピューターとしてのパームや、スマートフォンのTreoなど、それぞれに適したOSの選択がこれからなされていくことでしょう。


今後どのような製品の形で、私たちの目の前にパームOSが再び登場するかを、期待しながら待ちたいと思います。


ところで、個人的に今回の発表で残念だったのは、これまでこのサイトで何度も繰り返してきたパソコンのダウンサイジングが、パームOSによって果たせる可能性がなくなったことです。


マイクロソフトがハンドヘルドの分野にまでWindowsを持ち出してきたのは、ハンドヘルドOSの市場の制覇を狙ったと言うよりは、パソコンのOSでの主役の座を脅かす敵を排除しようとしているからではないでしょうか。サーバーのOSにWindowsを採用しているのも同様でしょう。


もともとワークパッドとして日本語版のパームが登場したときは、PCコンパニオンという位置づけでした。つまりパソコンとの連携により、もっと手軽にプロセスされたデータ(情報)を利用する事を目指していたのです。


これは言い換えれば、これはパソコンをダウンサイジングするということに他なりません。ダウンサイジングがそのまま進行すれば、ハンドヘルドの普及によってパソコンの市場が食い潰されてしまうこともあったかも知れないのです。


そして、Windowsの牙城を切り崩す事ができた最有力候補が、パームOSだったのです。少なくとも数年前までは。


コンピューティングを最小構成で実現するパソコンと、通信を最も手軽に提供する携帯電話のちょうど中間にいたパームOSが、真の通信とコンピューティングの融合を担うと期待していました。


携帯電話はやはり通信機器であり、パソコンはコンピュータです。通信とコンピューティングを有機的に融合した製品の登場は、きっと私たちに何らかのブレークスルーをもたらすに違いありません。


今回の買収によって、おそらくパームOSの役割は大きく変わってしまうでしょう。しかし、パームOSがこれまで歩んできた軌跡によって、通信とコンピューティングの融合に方向性を示したことを確信する次第です。

544.PalmSourceの手紙 (2005/09/13)

最初は一心同体で生活も順調だったのです。でもいつも一緒にいると、なんか息苦しいと言うか、お互いを拘束しあっているような気がして、別居することに踏み切った訳です。


確かに別居し始めた頃は束縛が解けて、これでお互いが求めている世界に自由に羽ばたいていけると喜んだものです。お互いの立場を尊重して、適度な距離を保ちながら良い関係を築いていけると思いました。


しかし、喜んでいたのも束の間、実際には世の中には私たちが求めていたものはあまりなかったのです。あるいは世の中が私たちに求めていたのもがなかったと言うべきかもしれません。次第に閉塞感が漂ってきていました。


そして今になって思うのは、別居してしまうと、やはりいつしか疎遠になっていたのですね。お互いが何を考えているか分からなくなってきましたし、別にそのことを気にもかけなくなっていたのです。


そんな時、ふとしたことから新しいパートナーが目の前に現れました。夢を熱く語られているうちに、まだ自分にはチャンスがあるのではないかと思うようになりました。そして、今のどっちつかずの生活に我慢できなくなってしまったのです。


もちろん不安はあります。新しいチャレンジには失敗は付きものです。あるいは元のパートナーを見捨てるように思われるのも残念です。


でも、今の中途半端な状態より、きれいさっぱり別々の道を歩んで行った方が、お互いの将来が明るくなるのではないでしょうか?別々の道と言っても所詮は同じ方向を向いているような気がしますから、そのうちまたばったり出会って、一緒に力を合わせることがあるかもしれません。


いつも遠くの方から見守っています。元気でね!



愛する双子の相棒へ

543.「的を得ん」言い訳 (2005/09/08)

夏の休暇疲れが尾を引いて、夏ばてなのか何なのか今一本調子になりきれないために、更新が途絶えておりました。世間では、天災や航空機事故が続いておりまして、安心して生活することの難しさを感じております。


さて、このように更新が滞っていた言い訳をしていて今一要領を得ない場合、「的を得ん」言い訳と言われるわけですが、この「的を得る」は誤りで、正しくは「的を射る」だと言うのです。


小学校の国語の問題で、「的を得る」という語句にある間違いを訂正させる問題があったのですが、最初何が間違いなのかまったく分かりませんでした。答えを見て初めて「的を射る」が正解だと分かったのです。


しかし、「的を射る」では私的には語呂が悪く感じたので、国語辞典で調べてみました。すると「的を得る」には記載がなく、「的を射る」だけが解説されています。いかにも「的を得る」は「的外れ」だと言うのです。漢字辞典で「的」を調べても同様の結果です。国語の先生的には「的を得る」は×なのでしょう。


しかし、「的を射る」の否定形の「的を射ない」ではあまりにも違和感があります。Googleの検索では、「的を得ない」は11500件引っかかりますが、「的を射ない」では1100件しか出てきません。昔なら辞典を調べて納得するしかなかったのですが、インターネットで調べるといろいろな角度から見た解説が掲載されています。


要約すると次のようになります。



  • 「的を射る」が正解で、「的を得る」は誤りである。
  • 検索サイトでヒットするのは、「的を射る・的を得る」では「的を射る」が圧倒的に多いが、「的を射た・的を得た」では逆転して「的を得た」が多くなる。
  • 年代別では、国語を現役で習っている世代(中高生)では、「的を射る」が大勢を占めるが、年代が上がるにつれて「的を得る」が多くなっていく。
  • 最近の小説の中には「的を得る」が使われているものもあるが、それが誤って使ったのか、わざと使ったのかは不明である。
  • 「正鵠を射る」「正鵠を得る」とも言い、「的を得る」もそこから派生したと考えられる。

と言ったところでしょうか。「正鵠」とは的の真ん中の黒丸を指すそうで、弓をやる人は真ん中に当たることを「的を得る」と言うそうですから、どちらもそれなりに正しいと言えるかもしれません。慣用的に使われているからこそ慣用句ですから、教科書に載っている事よりも実際にどう使われているかが重要になります。


私個人的な意見としては、「的を射る」では弓を引いて的に当てようとしている状態も指すように感じるため、的に矢が刺さっている感じがあまりしません。


また否定的に使う場合「的を射ない」は言いづらいですし、「的を得ん」と関西弁風にアレンジする事ができるのも「的を得ない」の良いところです。


しかし、学校では「的を射る」と教えているにもかかわらず、「的を得る」が自然に定着してしまうところが日本語の難しさなのかもしれません。この日本語のいい加減さが、また味であり風情を醸しだすののでしょう。


また結論がなく「的を得ない」内容になってしまいましたが、これも風情と許していただけるでしょうか?