256.欠陥住宅訴訟 (2003/11/14)

NIKKEI NETに、「名義貸し建築士の責任認める、欠陥住宅訴訟で最高裁」と言う記事か掲載されています。記事を見れば、至極当然の判決にしか見えませんが、このような裁判が最高裁まで闘われて、最高裁の判断が初めて示されたと言うことですから、これまで最高裁の判例がなかったと言うことなのでしょう。


判例は最高裁のものが出されて、初めて最終的な判断が出たと見なされます。控訴審では判決が出たとしても上告審で覆る事がありますから、司法としての最終判断とは考えにくいのです。


これほどまでに、欠陥住宅のことが社会問題化しているにもかかわらず、今頃になって工事監理者の責任を言及する最高裁の判決が出たと言うことに、驚きを感じます。


もちろん、あらゆる製品に欠陥が全くないと言うことは難しいことです。住宅にも瑕疵による欠陥があることは、ある程度は仕方がないことでしょう。


しかしやるべきことをやらず、その結果必然的に欠陥住宅を作ってしまったのなら、責任を問われるのが当然でしょう。資格と言う特権の上に胡坐をかき、名義貸しなどと言う事を続けている限り、欠陥住宅を無くすことはできないでしょう。


住宅問題に関しては建築に関するものばかりでなく、賃貸の場合でも多くの問題が発生しています。例えば、賃貸物件から転出する場合、室内の汚れをクリーニングするためにデポジットがほとんど返金されなかったり、追加で請求されたりするケースが多いようです。


もちろん、故意過失によって多大な損傷を与えた場合には弁償する必要がありますが、通常の使用における汚れや劣化に対しては、本来賃貸料に盛り込まれているいるものです。もし、次の人に貸すためにそれらをまっさらにしなければならないとしたら、逆にそれまでは人に貸せない状態の住居に対して賃貸料を取っていたと言うことになりますから、家主がこれまでの賃貸料を受け取る根拠がなくなります。


このような説明をしっかりできる、不動産業者は意外と少ないようです。しかし、USでは州の法律として細かく条件が書かれていますし、不動産業者は入居の前に説明をしなければならないようです。消費者保護が謳われていますが、まだまだ十分とは言えないようです。


最近、裁判に関して国民の注目が集まって来ています。裁判官弁護士を扱ったテレビドラマも、多くなってきました。訴訟を起こすこと自体が、忌み嫌われていた時代は終わりました。広く開かれた司法を通して、安心して住める社会になってもらいたいものです。

255.特許制度の趣旨を問う (2003/11/14)

ソフトバンクIP電話に関する特許に関した発言が注目されています。ソフトバンクが取得した特許は、一切ライセンスしないし、特許が切れる間際に特許料を請求すると言う強気の方針を表明したかと思えば、一転して他社のライセンスを使っていた場合は早い目に教えて欲しいと弱気な発言をしています。


もしこれらの発言が本当に本人の口から出たものなら、何と身勝手な話でしょう。「お前は許さんが俺は許せ!」と言うことでしょうか。


また最近、日立も特許政策の見直しをして、他社にライセンスしない方針に転換しようとしています。


本来特許法は、特許を広く公開してすばらしい発明の恩恵を、多くの人々が享受できるようにするのが趣旨であり、発明者の利益を保護するのは発明者の金銭的な利益を守るためではないのです。


もちろん、発明がすぐに真似をされてしまい、発明者の努力が報いられなければ発明をする動機を失いますから、保護はされるべきではあります。しかし、大して新規性革新性のない発明が、人より少しだけ先んじて申請したからと言って、長期にわたり権利を独り占めにできるのが妥当であるとは思えません。


本当に革新的であり、他人が同じ発明をするのに何年も掛かるものに対して、20年間の独占使用権が認められるのは、当然かもしれません。その発明のおかげで、人々が快適な生活を送ることができるような商品が提供されれば、社会的貢献度が高いと言えるでしょう。


しかし、生活に役立つわけでもなく、他の有用な発明や商品の開発を、いたずらに遅らせるような発明に対して与えられた特許は、社会の敵と言えましょう。


昔のように、一部の発明家が思いつきで行っていた時と違い、現在は企業や個人が、同じテーマで同じような発明を競い合っています。一番先に申請された発明がもしなかったとしても、二番目の発明が直に申請されるような状況で、一番目にだけ長期間権利を与えることによる社会的損失もあるのではないでしょうか?


本当に新規性・革新性があり、競争者に対して何年かのアドバンテージがあるのなら、そのアドバンテージの期間だけ発明に対する権利を行使できるようにするべきでしょう。


そのためのは、申請されたものだけを審査していたのでは、新規性の程度が判断できませんから、特許の公開審査請求などの機能を変えて行かなければならないでしょう。


特許をかいくぐる為に多くの労力が使われている現状は、本来の特許制度の趣旨に反しています。その為に無駄に費やされている人類の知恵を、もっと有用な用途に振り向けるべきです。


大昔に制定された特許の制度も、時代のスピードに合わなくなっています。国際特許を同時に申請できるなどと言う些細な改善に留まらず、特許制度を時代に即した人類に貢献するものに変えていってもらいたい物です。


新規性・革新性を問う特許制度が、旧態依然としていてはおかしいでしょう?



243.森林は育てるもの (2003/11/04)

カリフォルニア州南部の森林火災が、ようやく鎮火しようとしています。これほどまでに燃え広がったのは、枯れた木を伐採して来なかったからだと、新知事は力説しています。


日本の林業が、一部のブランド銘木以外利用されなくなったのは、間伐植林の手間をかけなかったからだと言われています。森を育てるのは何十年とかかる長い仕事です。長い仕事になればなるほど、その間に少しでも手を抜けば、確実にその影響が出てきます。


神戸にある六甲山は、明治までは禿げ山だったそうです。元々花崗岩でできた山で、自然と木が生長するには適していなかったのかもしれません。その後植林に力を注いだおかげで、今では緑豊かな木々に覆われています。


松食い虫の被害を避けるため、ある時期からを積極的に植林してきたそうですが、最近これら常緑の針葉樹によって、低層に生えるべき草花が育ちにくいと指摘されています。そこで常緑の杉や桧を間引いて、その代わりに落葉する広葉樹を植えて行こうとしています。


広葉樹は、葉を落とすことから下層部の草にも日が当たる時間が増え、落ちた葉が土地を肥やすので多くの植物が育つ、いわゆる雑木林を形成し易くなります。雑木林は植物のみならず、小動物にとっても住み易い環境を形成します。


また、針葉樹は根の張り方が少なく、土砂崩れ鉄砲水などの災害が起きやすいのですが、広葉樹根を広く張るため地面の保水力が増し、水災害の対策としても効果があるようです。


一般的に、広葉樹はその枝葉が空中に広がっているのと同じだけ、地中に根を張り巡らせているそうです。つまり、上から見て枝葉が投影される地面には、根が伸びていると言うことです。それだけ大地に根ざしていると言うことでしょう。


森林の育成・保護には多くの人手と時間がかかります。また、継続的なメインテナンスも欠かせません。企業の中には、本来の事業とは別に、積極的に植林事業を進めているところもあります。


22世紀の森林は、もう生長し始めているのです。

238.クレジットの信用落ち (2003/10/30)

今海外旅行の準備をしています。本当の自由旅行は予約などしないものですが、日程が決まっていて同行者もいる場合は、安全で確実な計画が必要になってきます。そこでホテルなどの予約をするのですが、そこで一つ気付いたことがあります。


以前なら、予約時にデポジットを要求するホテルは、ラスベガスなどの一部の観光地に限られ、夕方6時以降に到着する場合でも、クレジットカード番号を伝えるだけで良かったのですが、今回は全てのホテルが予約時に1泊分に相当する金額を、クレジットカードにチャージしてきました。


勿論、キャンセルの期限までに取りやめた場合はリファンドされるようですが、昔なら考えられなかったことです。一体何があったのでしょうか?


以前からホテルは、予約時にクレジットカード会社に対して、ある一定の金額の承認を受けていましたが、それだけでは取りはぐれる事があると言うことなのでしょうか?


実際にクレジットカードにチャージされると、その時点でクレジットカード会社と加盟店との取引が成立してしまうので、単に承認を取っただけよりは確実に回収できるのでしょう。


これほどクレジットカードが普及すると、発行されたクレジットカードの全てが与信に耐えるものかどうか、疑わしいものが増えているのでしょう。特に最近の世界的な不況においては、あらゆる所に信用のおけないクレジットカードが存在するでしょうから、少しでも取りはぐれない方法を取っておかなければならないのかも知れません。


昔は現金には偽物があるからと言って、クレジットカードの方が信用があると言われていましたが、また逆転してきているのかもしれません。


日本でも新しい紙幣が印刷され始めましたが、偽造のできない紙幣が流通して行くと、やっぱりゲンナマが一番信用できると言うことになるのでしょうか?

235.停滞する日本を憂う5: 日経の社説から (2003/10/25)

2002年8月15日日本経済新聞に、“敗戦」から何も学び取らない国の悲劇”と言う社説が掲載されています。


その冒頭で、「太平洋戦争の敗戦から57年が過ぎた。われわれはあの敗戦から何を学んだだろうか。」、と問うています。戦争によって、日本という国は何も学んで来なかったと断言しています。「真正面から歴史と向かい合うことをせず、過去から何も教訓として得ることなくきた。
」、と言っています。


日本はまた同じ過ちを繰り返し、「太平洋戦争敗戦に至る過程と、今日の日本が『第2の敗戦』とも言うべき衰退の道をたどっている経緯を比較分析すると驚くほど似ている。」、と言っています。


哲学者の言葉を借り、「直観的な事実にのみ信頼を置き、推理力による把捉を重んじないという民族の性向がある。」、と言い、「日本が鎖国している間に欧米では新しい科学が生活の隅々まで浸透していった。この落差がいまに至るまでそのまま残っている。
」、と言い加えています。


「官僚主導で同じ過ち」、と題して外交評論家の日記から、「軍人は最後まで『東京へは絶対に敵機を入れない』とか『麹町区には飛行機を入れない』といっていた。」、と引用しています。如何に村社会に留まった考え方であったかが伺えます。


社説は、「歴史を直視し、そこから教訓を得ようとしない人々や、そういう人々が構成する社会・国家は進歩しない。次世代に引き継ぐためにも3度同じてつを踏む愚は繰り返すまい。
」、と締めくくっています。


三度目の正直!その為にも今の日本、過去の日本をもう一度省みる必要がありそうです。