355.中と外のトポロジー2: 胃の中は外? (2004/06/25)

先日夜中に目が覚めたのでテレビをつけてみると、高校の生物の講座をやっていました。受精卵が細胞分裂を繰返しながら、成体になっていくようすを解説していました。


一つの細胞からある程度の数に分裂が進むと、やがて表面にくぼみが出来始め、組織の表面がそのくぼみに吸い込まれるようにして入っていきます。


そしてそのくぼみが深くなっていき反対側に到達するようになると、そこで新たな開口部ができます。では、新しい開口部最初のくぼみができた古い開口部の、どちらがでどちらが肛門になるのでしょう?


素人考えでは、口になるか肛門になるかははっきり決まっていて、最初のくぼみが口になり、新しくできたのが肛門のように想像してしまうのですが、人間の場合は新しい開口部が口になるそうです。このような動物を新口動物と呼び、ほ乳類の他にはカエルやウニなどが含まれるそうです。


これとは逆に、最初のくぼみが口になる動物旧口動物と呼び、昆虫やミミズが分類されるそうです。以前は新口動物と旧口動物の違いに、何か特別な意味があると考えられていたそうですが、その後の研究で生物学的にはあまり重要な意味はないとされているようです。


になる反対の開口部は肛門になるわけですから、同じ開口部と言っても気分的には大きな違いがあるのですが、生物学的には食べ物を入れるところと出すところは機能的に補間関係にありますから、同じ種類の器官であり、似たもの同士と考えるようです。


さて、くぼみが成長して消化器官になっていきますが、くぼみができる前は体の表面にあったわけですから、皮膚と胃・腸の壁は、最初は区別がなかったのです。


あなたの鼻の横にあるイボは、ひょっとして胃の中のポリープになっていたのかも知れません。


ところで「胃の中は体の中か外か?」、と言う質問に答えるのは簡単ではありません。例えば体内には血液やリンパ液が循環していると定義すれば、胃の中は体の外と考えることが出来ます。


トポロジー的に考えると、「皮膚と同一面を形成するものは、体の内部と外部を隔てるとなります。ですから胃の中は感覚的には体の内部であっても、トポロジー的には体の外部になってしまうのです。


ものの捉え方によって、中か外か判断が変わってくるのです。ひょっとして電車の中でお化粧をする人にとっては、電車の中がプライベートスペースなのかも知れません。

354.中と外のトポロジー1: パブリックとプライベート (2004/06/24)

最近電車に乗っていて思うのですが、どうも「電車の中でお化粧をする女性の方が増えてきている」のではないでしょうか?


確かに、昔から口紅やコンパクトをちょっと出してきてお化粧を直す方は見かけましたが、電車の中で本格的にお化粧をされる方が増えているように思うのです。


私が利用する電車だけの傾向かも知れませんが、多い日には隣に座った女性が入れ替わり立ち替わり次々と化粧をして行かれることがありますし、混雑した電車で立ったままされている方も少なくありません。


男性が電車の中で電気ひげ剃りを使う事もたまに見かけますが、それに比べると女性のお化粧に出くわす事の方が増加傾向にあると思います。


もっとも男性が電車の中でお化粧を始めないだけましですが、何となく見てはいけないような気がして、早く終わらないか気になってしまいます。


なぜ見てはいけないように感じるかというと、お化粧が進むにつれて見違えるように美しくなって行くのも怖いですし、一生懸命やっている割に改善が見られないのも気の毒なような気がして、できるだけ視界から外すようにしています。


まあ、「かぐや姫が鶴になって、機を織っている姿を見てはいけないのと同じ」、としておきましょう。


しかし元来、化粧などと言うのは完全にプライベートな作業であるはずで、パブリック・スペースでは禁止だと思うのですが、最近はそれらの区別がなくなってきているのでしょうか?


欧米では、子どもの小さいときからパブリックプライベートの区別をはっきり躾けますが、日本ではあまり意識していないせいか曖昧になりがちです。


そう言えば、携帯電話インターネットによって常に誰かのそばにいるような安心感があるそうですが、逆に言えば常に外界から隔離された実感が薄れてきているのかも知れません。


家の中にいても、外出しているのと同じように買い物をしたり情報を手に入れることができ、つまり家のの区別がなくなってきているのです。


世の中が便利になると、家の中と外の区別がなくなり、昼と夜の区別がなくなり、男と女の区別がなくなる(?)。全てのものがボーダーレスになってくるのです。


おそらく電車でお化粧をしている方々は、家の外でお化粧をしているという意識はなく、電車の中でしているとお考えなのでしょう。


どこまでが中でどこからが外か、簡単なように見えて奥が深そうです。

353.「小数点記号論争」の結果 (2004/06/21)

もうだいぶ前になりますが、「217.小数点記号論争 (2003/10/10)」で紹介した小数点の付け方の話題を覚えておられるでしょうか?その後、結果がどうなったか気にはなっていたのですが、ほったらかしにしておりました。遅ればせながらご紹介したいと思います。


小数点の付け方には、ピリオド(dot)「.」を使う国と、コンマ「,」を使う国があり、国際的な商取引や学会等で混乱を引き起こす可能性があるので、どちらかに統一を図ろうと言うものでした。


ピリオドを使う国には、日本を始め、中国、韓国、英国、米国などがあり、コンマを使う国にはフランス、ドイツなど、ヨーロッパを中心に多くの国があります。


パームでも環境設定書式を選択しますが、国ごとにどちらを採用しているかを知ることができます。


一般に小数点にピリオドを使う国では3桁ごとの位取りにコンマを使い、小数点にコンマを使う国では反対に位取りにピリオドを使うため、さらに混乱に拍車を掛けることになります。


例えば、小数で「1.23」「1,23」は間違えにくいでしょうが、「1.234」「1,234」では、小数点なのか3桁ごとの位取りなのかがこれだけでは解らなくなってしまいます。


また、「1,234.567」「1.234,567」となってくると、もうどうでも良いように思えてきます。


各国が使い慣れた方法を国際標準に採用してもらうよう働きかけたようですが、さて結果はどうなったのでしょうか?


第22回国際度量衡総会において決議されたという内容を要約すると、次のようになります。



  1. 小数点に使う記号は、ピリオドでもコンマでもどちらを使っても良い。
  2. 数字を読みやすくするために3桁ごとに数字を区切る場合、それらを分けるスペースには、ピリオドもコンマも挿入することはできない。

つまり、現状小数点としてピリオドもコンマも同様に世界中で広く用いられているため、どちらか一方に決めることはせず、同一文章中において統一されていれば、どちらを使っても構わないと言うことです。


また、3桁ごとに数字を区切ることは許されるが、スペースのみによって分け、ピリオドもコンマも使用してはならないとしています。


この3桁ごとに分ける方法は、既に1948年の会議で決められていたことの再確認をしたと言うことだそうです。


数字の間に挟むことができるのは、小数点としてのピリオドかコンマだけで、3桁ごとに分ける場合は、はるか昔からブランクに決まっていたようです。


ただ、1948年に決まっていたことを再確認するぐらいですから、定着していなかったのでしょう。たまに外国製のドキュメントで3桁ごとにブランクを入れた数字を見かけることがありますが、それほど多くの例があるとは思えません。


特にWEBワープロ・表計算ソフトなどにおいてブランクを挟んだ数字を扱えば、どこまでが一連の数字か判断できずに途中で改行が入ってしまったり、計算を間違えてしまうことも考えられます。


コンマやピリオドを使うことが小数点と混同する可能性があるなら、代わりにアンダースコアを使うのも良いかも知れません。


いずれにしても、長く使われてきた表し方を変えて行くのは、パームの普及と同じぐらい難しいのではないでしょうか?

352.アサヒカメラ最新号を見て思う (2004/06/20)

アサヒカメラ7月号特集グラビアのテーマは、「麗しのヌード」。なるほどアサヒカメラらしい芸術性の高い力作とおぼしき作品が並んでいます。海外からの作品と国内の作家の作品、カラーにモノクロと、一通りのバリエーションを網羅し、特集としての体裁を持っています。


アサヒカメラと言えば、カメラ・写真雑誌の中では硬派で通っており、写真コンテストなどの入賞作品にも、他の雑誌に比べヌード系の作品はあまり入賞しないとされていました。堅い作風の写真は、アサヒカメラの特徴そのものでした。


ところが最近思うのは、アサヒカメラにヌード系の写真が多くなったと言うことです。そう言えば、20年程前にも同じように変わっていった写真雑誌がありました。


古くからある月刊写真雑誌の御三家と言えば、アサヒカメラ、カメラ毎日、日本カメラでした。しかし、80年代に新しい写真雑誌の創刊が相次ぎ、御三家のうち特にカメラ毎日の発行部数が落ち込んでいったのです。


その後、カメラ毎日のヌード写真の特集が徐々に増え、安易な発行部数稼ぎに走ったように見えました。そして1985年5月号で、ついにカメラ毎日は休刊になってしまいました。


今月号のアサヒカメラには、特集グラビア以外にも休刊を予感させる記事があります。「ジャンル別2004夏のカメラ買い方ガイド」と言う記事では、なんと1000万画素のデジタル一眼レフと、4x5インチのビューカメラ比較記事が掲載されています。


しかもその比較の目的が、これからデジタルカメラと銀塩カメラのどちらを購入するべきかを判断する事なのです。


これは、長年この雑誌を購読してきたものにとって、かなりぶっ飛んだ記事なのです。


4x5インチフォーマットのビューカメラが、いくらレンズを含めて20万円で買え、しかも画質がすばらしいとしても、最新デジタル一眼レフに比べてお買い得だと言う理屈は、あまりにも滑稽であります。アサヒカメラの末期が近づいていると確信致しました。


デジタルカメラと銀塩カメラの趨勢を、写真雑誌として見極めなければならないのは解っていながら、銀塩カメラの衰退を間近に見て、これまで気付いてきた写真雑誌としての威信が崩れて行くのでしょうか?明らかに、編集方針に迷いが有り、パニックに陥っているように思います。


いっそのこと、デジタルカメラ専門誌を新しく創刊して、銀塩カメラだけを扱う専門誌としてアサヒカメラは生き残るのが妥当だと思います。同じカメラ・写真の範疇だからと言って、デジタルカメラと銀塩カメラのランニングコストや画質の比較ばかりしていては、休刊の時期を早めるだけでしょう。


デジタルカメラの新しい可能性を開拓する事と、古くからある銀塩写真の伝統を守る事はどちらも大切ですが、同じ雑誌の中で同時に語るには異質のものなのです。


アサヒカメラが、デジタルカメラと銀塩写真の将来を見据えた雑誌に発展・変貌することを、切に願います。

351.選択肢と幸福感 (2004/06/14)

日経サイエンス7月号に、「豊かさが招く不幸」と言う記事が掲載されています。生活が豊かになるに従って選択肢が増え続けた結果、最適なものを選ぶことに苦痛を感じるようになってきていると述べています。


一般的にものを選ぶ場合、選択肢の数が多ければ多いほどより良い選択が可能になり、満足する結果を得られやすいと考えます。ところが、個人の性格の違いにより、選択肢の多さがかえって苦痛になることがあるそうです。


人間を性向によって2つのグループに分けます。1つ目のグループを「追求型」と呼び、すべての可能性を調べ上げて選択肢の中から最適なものを探そうとする人たちです。2つ目のグループを「満足型」と呼び、最適なものを探そうとはせず、自分が満足できる選択が一つでもあれば、それ以上の可能性があったとしても興味を示しません。


まだ食べたことがないコーンフレークが273種類あると聞いても、「満足型」の人は今朝食べたコーンフレークに満足していれば気にしませんが、「追求型」の人はもっとおいしいものがあるかも知れないと、あらゆるスーパーを探し回るのです。


いま10種類の製品があり、「満足型」の人はそのうち半分ぐらいの確率で製品に満足するとします。「満足型」の人は、数種類の製品を試すだけで満足できる結果を得ますが、「追求型」の人は10種類すべてを試して最適なものを選ぼうとするでしょう。


ところが製品の選択肢が100種類になると、「満足型」の人はやはり数種類試すことによって満足できる結果を得るでしょうが、「追求型」の人は100種類全部試そうとしますから、大変骨の折れる作業になります。


幸運にも一番最初にその人にとって最適な製品を試すことができたとしても、残りの99個の製品を確かめなければそれが最適かどうか判断できませんから、「追求型」の人はすべてを試さない限り納得できないのです。


そして「追求型」の人が、現実的にすべてを試す事ができない膨大な選択肢から、ひとつのものを選ばなければならない時、あとで必ず後悔するそうです。最適でないものを選んだ可能性がある場合、最適なものとの差(機会費用)を失ったことになり、損失を被ったと考えるからです。


また一般的に良いものを選ぶことができた幸せより、良くないものを選んだ不幸のほうが、精神的ダメージが大きいそうです。


欲しいものから選ぶと言う行為は楽しいものです。しかし、「追求型」の人にとって、あまりの多くの選択肢の中から選ぶ場合、選ぶこと自体が苦痛になり得るのです。


USでは、過去30年でGDPが2倍以上になり、それに伴い経済活動における選択肢が増えているのも関わらず、幸福感が低下しているそうです。自由に選択できる事が、かえって精神的な負担になってしまう事があるのではないかと考えられています。


それにしても、今のパーム・CLIE売り場はどんどん縮小され、選択する自由が失われてきています。さまざまなパーム製品が売り場に溢れかえり、多くの選択肢から選ぶことに精神的負担を感じてみたいものだ、と思われている方も多いのではないでしょうか?