233.停滞する日本を憂う3: 官僚主義の蔓延 (2003/10/25)

(ある1冊の本から抜粋された情報を含みます。)

この本には、日本の役人士農工商封建社会を持ち込んだまま、一向に進歩していないと書かれています。特権階級に胡座をかき、下の者を如何に黙らせ支配を続ける事だけが仕事の中身であり、自分の地位や身分を守ることだけにとらわれ、本当に国のために何をすべきか、国民は何を望んでいるかを全く考えていないと嘆いています。


また、官僚の上になるほど仕事を知らないとも言っています。「本来の上役と言うものは、それだけ下役よりも仕事に長けているからこそ仕事をうまく進めていくことができるはずであるのに、局の仕事を局長が知っていることはほとんどなく、課長がぼんやり、事務官は粗方知っている程度で、大臣は仕事を知らない事を持って得意になっている」、と書いています。


そのくせ、「責任回避術だけには長けていて、決して失敗の責任を取らないようになっている」、と言っています。このような役人の仕事をしていれば、国を豊かにしようと国民がいくら一生懸命働いても、役人の無駄によって、国全体ではいつまでたっても豊かな暮らしにはならないでしょう。


今の役人の仕組みを、早晩変えていかなければならないと主張しています。まず、「官民の人事交流を自由にし、仕事に対して徹底的に責任をとらしめ、官吏の異動が国民の利益を無視してただ本人の出世の方便として行われているのを改め、専門官吏を養成できずいたずらに事務を渋滞させていることを、改善していかなければならない」、と言っています。


また「人格形成を伴う教育のあり方が大切であり、智能の士よりも真理の人であり、従来の小手先の器用な人間を作る技能万能主義を改めて、人間として信用し得る人格本位の教育制度を確立すべきである」、と述べています。


この人格形成と言うのが、一番難しいでしょう。日本の教育と言うと、計算が出来ることや漢字を読み書きできることを真っ先に考えてしまいます。しかし、元来機械的作業と言われるように、機械でも出来るぐらい単純な仕事であるわけで、現に電卓やワープロによって、自分の頭では出来ないような計算や、見たこともないような漢字を、いとも簡単に実現することが出来るのです。


教育で人格形成を行えと言っても、現在では人格という言葉自体がほとんど死語に近くなっています。「あの人は人格者だ!」等という会話は冗談では言うことがあっても、実際に使う場面には、なかなか出くわさないものです。本来人格者であるべき人たちが、次々に不祥事で捕まってしまう時勢においては、既に人格形成のための教育を考えるには遅すぎる感があります。


官僚主義の問題をを考える場合、小手先の器用さではなく、人格形成を教育として真剣に考えなければならないと言うことは、至極真っ当でありながら、どうすればよいか皆目検討がつかないのが現実ではないでしょうか?