175.パームとメディアと宗教学 (2003/08/20)

私が、電子機器の存在意義を考えるときに真っ先に考えることは、その電子機器のよって生み出されたデータあるいは情報が、「如何に長く利用できるか、如何に長くこの世に価値を持って、存在し続けることが出来るか」と言うことです。


パームを例にとって考えてみましょう。予定に近い将来のスケジュールを入力します。その日、その時刻が来るまでは、備忘録として使うわけですが、終わってみればそのままコメントに記録を書き足したり感想を書いて、日記として残していきます。毎日、毎年続けていけば、かなりの量のデータが、パームのメモリーを占めていくことになります。


数年経つとこの蓄積されたデータは貴重な資料となります。そして、古くなればなるほど、データとしての価値が高まって行く場合もあります。


ところが、電子機器は流行りすたれがあり、新しく便利なものが後から登場すると、あっという間にそれまでのものが消え去っていきます。テレビやラジオなどのデータを受け流すタイプの機器は、さほど入れ替わっても問題がないのですが、記録するタイプの機器、例えばテープレコーダーやビデオデッキ、カメラの類は、古い記録を再生できる事が本来の目的ですから、新しい機器が登場して入れ替わることは、過去の資産を捨てなければならないことを意味します。


過去には、オープンリールテープ、8ミリビデオ、110・126カートリッジフィルム、ディスクカメラ、ベータビデオ、セルロイドベースの映画フィルムなど。APS等も、すでに消え去っていく運命が近づいています。


日経ビジネスの特集記事にあった佐藤正明氏の「映像メディアの世紀」や、NHKのプロジェクトXで有名になりましたが、日本ビクターのVHS開発の中心人物であった故高野鎭雄氏が、強く意識されておられたメディアと言う概念が、ここで非常に大切になってきます。


メディアというのは、元々は宗教からきた概念のようですが、コンピューターの分野では媒体と訳され、各種データを記録し持ち運ぶための素材を意味します。高野氏は、VHSビデオの普及の為には、ハードウェアであるビデオデッキを売ることばかり考えているのではなく、メディアとしてのVHSフォーマットのテープを世界中に広げていくことが、重要であると考えられたのです。


宗教学では、の存在は"Ultimate"であると考えます。現れては消え去る不確実なものに裏切られ続けた末に、人々が信頼できるものとして究極的なもの、"Ultimate"なものとして、唯一無二である神を崇めようとするのだと考えています。


さてパームの世界において、メディアと言えるものがあるのかと考えたとき、それは新しいものが出て来てはすぐに陳腐化するハードウェアではなく、蓄積されたデータやそのフォーマットであったり、あるいはパームOSパームウェアであると予想されるのですが、果たしてそれらが"Ultimate"を目指して作られたものだろうか、メディアとして長く伝えられるものだろうかという疑問が沸いてくるのです。


確かにパームウェアの多くは、すばらしいものです。しかし、パームの業界としてその価値を認識しているかと言えば、そうではないように思えてくるのです。


VHSのフォーマットも、いつまで供給され続けるか判りませんし、そもそも電子機器の世界には寿命は付き物と言うのも現実ですが、究極を狙うという姿勢は、電子機器においても大切なのではないかと思うわけです。


少なくとも、目先の新しさを追うだけではなく、末永く使えることを考慮し究極を目指して貰いたいものです。

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