545.パームOSに期待していたこと (2005/09/14)

ACCESS社によるPalmSource社買収のニュースは、パームコミュニティーにかつてないほどの衝撃を与えました。


もう今は落ち着きを取り戻して来たように見えます。しばらく時間がかかるであろう携帯電話とパームOSのコラボレーションの発表まで、固唾をのんで待っていようというところでしょうか。


このニュースは概ね好感を持って迎えられたようです。パームOSの復活、しかも携帯端末の主流である携帯電話への参入が約束されたようなものですから、この機会に大きく飛躍出来ることを願っている人も多いことでしょう。


確かにパームOSが、今後Linuxベースになろうとも、携帯電話のOSとして普及することは喜ばしいことでありましょう。例えすばらしい技術・製品であっても、多くの人に利用されてこそ価値がありますから、飛躍的に利用者が増える可能性を持った携帯電話の分野に進出できることは、パームOSにとってまたとないチャンスに違いありません。


一方、従来のパーム製品としては、取り残されてしまったUSのPalm
Inc.の今後の動向を見守るしかありませんが、OSとしてパームOS以外の採用も長い間噂されてきました。


パームOSが携帯電話専用OSになろうとも、ハンドヘルド・コンピューターとしてのパームや、スマートフォンのTreoなど、それぞれに適したOSの選択がこれからなされていくことでしょう。


今後どのような製品の形で、私たちの目の前にパームOSが再び登場するかを、期待しながら待ちたいと思います。


ところで、個人的に今回の発表で残念だったのは、これまでこのサイトで何度も繰り返してきたパソコンのダウンサイジングが、パームOSによって果たせる可能性がなくなったことです。


マイクロソフトがハンドヘルドの分野にまでWindowsを持ち出してきたのは、ハンドヘルドOSの市場の制覇を狙ったと言うよりは、パソコンのOSでの主役の座を脅かす敵を排除しようとしているからではないでしょうか。サーバーのOSにWindowsを採用しているのも同様でしょう。


もともとワークパッドとして日本語版のパームが登場したときは、PCコンパニオンという位置づけでした。つまりパソコンとの連携により、もっと手軽にプロセスされたデータ(情報)を利用する事を目指していたのです。


これは言い換えれば、これはパソコンをダウンサイジングするということに他なりません。ダウンサイジングがそのまま進行すれば、ハンドヘルドの普及によってパソコンの市場が食い潰されてしまうこともあったかも知れないのです。


そして、Windowsの牙城を切り崩す事ができた最有力候補が、パームOSだったのです。少なくとも数年前までは。


コンピューティングを最小構成で実現するパソコンと、通信を最も手軽に提供する携帯電話のちょうど中間にいたパームOSが、真の通信とコンピューティングの融合を担うと期待していました。


携帯電話はやはり通信機器であり、パソコンはコンピュータです。通信とコンピューティングを有機的に融合した製品の登場は、きっと私たちに何らかのブレークスルーをもたらすに違いありません。


今回の買収によって、おそらくパームOSの役割は大きく変わってしまうでしょう。しかし、パームOSがこれまで歩んできた軌跡によって、通信とコンピューティングの融合に方向性を示したことを確信する次第です。

544.PalmSourceの手紙 (2005/09/13)

最初は一心同体で生活も順調だったのです。でもいつも一緒にいると、なんか息苦しいと言うか、お互いを拘束しあっているような気がして、別居することに踏み切った訳です。


確かに別居し始めた頃は束縛が解けて、これでお互いが求めている世界に自由に羽ばたいていけると喜んだものです。お互いの立場を尊重して、適度な距離を保ちながら良い関係を築いていけると思いました。


しかし、喜んでいたのも束の間、実際には世の中には私たちが求めていたものはあまりなかったのです。あるいは世の中が私たちに求めていたのもがなかったと言うべきかもしれません。次第に閉塞感が漂ってきていました。


そして今になって思うのは、別居してしまうと、やはりいつしか疎遠になっていたのですね。お互いが何を考えているか分からなくなってきましたし、別にそのことを気にもかけなくなっていたのです。


そんな時、ふとしたことから新しいパートナーが目の前に現れました。夢を熱く語られているうちに、まだ自分にはチャンスがあるのではないかと思うようになりました。そして、今のどっちつかずの生活に我慢できなくなってしまったのです。


もちろん不安はあります。新しいチャレンジには失敗は付きものです。あるいは元のパートナーを見捨てるように思われるのも残念です。


でも、今の中途半端な状態より、きれいさっぱり別々の道を歩んで行った方が、お互いの将来が明るくなるのではないでしょうか?別々の道と言っても所詮は同じ方向を向いているような気がしますから、そのうちまたばったり出会って、一緒に力を合わせることがあるかもしれません。


いつも遠くの方から見守っています。元気でね!



愛する双子の相棒へ

543.「的を得ん」言い訳 (2005/09/08)

夏の休暇疲れが尾を引いて、夏ばてなのか何なのか今一本調子になりきれないために、更新が途絶えておりました。世間では、天災や航空機事故が続いておりまして、安心して生活することの難しさを感じております。


さて、このように更新が滞っていた言い訳をしていて今一要領を得ない場合、「的を得ん」言い訳と言われるわけですが、この「的を得る」は誤りで、正しくは「的を射る」だと言うのです。


小学校の国語の問題で、「的を得る」という語句にある間違いを訂正させる問題があったのですが、最初何が間違いなのかまったく分かりませんでした。答えを見て初めて「的を射る」が正解だと分かったのです。


しかし、「的を射る」では私的には語呂が悪く感じたので、国語辞典で調べてみました。すると「的を得る」には記載がなく、「的を射る」だけが解説されています。いかにも「的を得る」は「的外れ」だと言うのです。漢字辞典で「的」を調べても同様の結果です。国語の先生的には「的を得る」は×なのでしょう。


しかし、「的を射る」の否定形の「的を射ない」ではあまりにも違和感があります。Googleの検索では、「的を得ない」は11500件引っかかりますが、「的を射ない」では1100件しか出てきません。昔なら辞典を調べて納得するしかなかったのですが、インターネットで調べるといろいろな角度から見た解説が掲載されています。


要約すると次のようになります。



  • 「的を射る」が正解で、「的を得る」は誤りである。
  • 検索サイトでヒットするのは、「的を射る・的を得る」では「的を射る」が圧倒的に多いが、「的を射た・的を得た」では逆転して「的を得た」が多くなる。
  • 年代別では、国語を現役で習っている世代(中高生)では、「的を射る」が大勢を占めるが、年代が上がるにつれて「的を得る」が多くなっていく。
  • 最近の小説の中には「的を得る」が使われているものもあるが、それが誤って使ったのか、わざと使ったのかは不明である。
  • 「正鵠を射る」「正鵠を得る」とも言い、「的を得る」もそこから派生したと考えられる。

と言ったところでしょうか。「正鵠」とは的の真ん中の黒丸を指すそうで、弓をやる人は真ん中に当たることを「的を得る」と言うそうですから、どちらもそれなりに正しいと言えるかもしれません。慣用的に使われているからこそ慣用句ですから、教科書に載っている事よりも実際にどう使われているかが重要になります。


私個人的な意見としては、「的を射る」では弓を引いて的に当てようとしている状態も指すように感じるため、的に矢が刺さっている感じがあまりしません。


また否定的に使う場合「的を射ない」は言いづらいですし、「的を得ん」と関西弁風にアレンジする事ができるのも「的を得ない」の良いところです。


しかし、学校では「的を射る」と教えているにもかかわらず、「的を得る」が自然に定着してしまうところが日本語の難しさなのかもしれません。この日本語のいい加減さが、また味であり風情を醸しだすののでしょう。


また結論がなく「的を得ない」内容になってしまいましたが、これも風情と許していただけるでしょうか?

542.愛・地球博探訪記6: あとがき (2005/08/23)

累計入場者数が目標の1500万人を突破して、総額500万円もの商品が振舞われたようです。


通常なら1500万人目が入場した時に入場ゲートでクス球が割られるところでしょうが、なんせ早朝から整理券目当てに必死に並んでいる人が大勢いますから、入場ゲートでの足止めは不可能と見たのでしょうか。


1500万人を突破した日に入場した人の入場券番号によって当選者を選び、さらに抽選場所に現れた当選者によって上位入選者を選ぶといった凝った方法が取られたようです。


万博を見て、おまけにプリウス43インチのプラズマテレビが当たると言うことで、常連の中には狙っていた人もいたそうですが、それにしてもめぼしい商品の当選者のほとんどが愛知県の方だったと言うことに驚きました。


あれほど名古屋のホテルが満杯になっていようと、いかに新幹線名古屋駅の乗降客が増えていようと、入場者のほとんどは地元の方だったのでしょう。4回行けば元が取れる全期間入場券が、総入場者数を押し上げる要因のひとつであったのは間違いなさそうです。


さて、目標の入場者数は達成できたのですが、それはどちらかと言えば営業的な観点と言えるでしょう。「地球上の総てのいのちの持続可能な共生」を追求する愛・地球博でしたが、その目的は達成できたのでしょうか?


自然のもつすばらしい仕組みといのちの力に感動できたでしょうか?世界各地での自然とのつき合い方と知恵を学ぶことができたでしょうか?残念ながら、問題を提起するまでで終わっていたように思います。


それほど地球環境の問題は難しいと言うことなのかもしれません。なぜなら、これまでの人類の経済活動の多くを否定することになるからです。


確かに会場内のいたるところには、環境に配慮した設備を見つけることができます。パビリオンの前に無造作に置かれた大きな箱が燃料電池であったり、室温を一定に保つために植物を植えた屋根があったり、タクシーが自転車であったり。


涼を求めるためにを噴出するのも、愛・地球博の特徴でしょう。それぞれは少しの効果しかなくても、いろいろと組み合わせることによって大きな効果を得ることができるかもしれません。


自然を取り戻すことは容易ではありません。そのために必要な方法も、私たちには明確ではありません。


しかし、愛・地球博を訪れた人たちが、その問題の大きさを知り、その問題の重要性を感じることができたとしたら、“EXPO 2005 AICHI,JAPAN”は成功したと言えるのではないでしょうか?


最後に、韓国館で上映されている3Dアニメーション、"TREE ROBO"の言葉で締めくくりたいと思います。



"Nature gives us another chance."

541.愛・地球博探訪記5: 食に見る万博 (2005/08/21)

世界中の様々な食べ物が揃うのが、万博の魅力の一つです。会場内で配られている公式マップに掲載されている以外にも、多くのレストランが各国のパビリオン内にあります。


そう言えば、大阪万博のフランス館でエスカルゴが供されていたのは話題になりました。当時、まだフランス料理をよく知らなかった日本人には、フランス料理=エスカルゴと思い込んでいたものです。ちなみにフランス館で供されていたカタツムリは、フランスから運ばれてきたものではなく、大阪府下で採取されたものだったそうです。


あれから35年経った今、フランス料理に限らず様々な国の料理を楽しむことが出来るようになりました。特に万博では気軽に本格的な料理を楽しむことが出来ますから、グルメの方には絶好の機会です。


ドイツ、フランス、イタリア、スイス、ベルギーなどの定番レストランはもちろんのこと、チェコビールを看板に掲げたチェコ、民族音楽と共に楽しめるルーマニアなど、ここでしか味わえないメニューも豊富です。しかし、どこのレストランも人気があり、パビリオンに入るよりも長い時間待たされることも多いようです。


また軽食をフードコート形式で提供する所もたくさんありますから、名物料理を試すならおすすめです。レストランの給仕係は、その国の学生がアルバイトでやっていることが多いようです。概ね愛想のない人が多いですが、話しかければ意外と面白い会話になったりします。


フランスピザを売っていたフードコートでは、フランスからやって来た学生たちが販売員をやっており、日本の夏の暑さでくたばっているご様子。


会場内の食べ物は1000円単位のものが多く、フレンチ・ピザの1000円がちと高いように思いますが、エビ天入りきしめん+ソフトドリンクで1000円は妥当なところでしょうか。


各国のカレーを食べ較べるのも良し、キューバ館で変わったカクテルをバーテンダーに注文するのも良し。突然目の前に現れますから、その度に気軽に挑戦してみるのがよいでしょう。


リトアニア館の前で販売しているビールを試してみるのも良いかも知れません。リトアニアのビールがうまいかどうかは知りませんが、話のネタにはなりそうです。販売しているリトアニアの女性は、色白で美しい人が多いみたいですから、それだけでも価値がありそうです。


しかし実のところ、会場で一番うまかったのは生ビールでした。キリンビールが会場内の販売を独占しているようですが、暑い会場を歩き回った後の冷えたビールは最高です。反対に暑いときにキューバ館の度数の強いカクテルを飲んだらひっくり返りそうになりました。


市販の弁当や飲料の持ち込みが禁止されていて不便に感じますが、それは安全性確保のためと割り切って、会場内のグルメを探すのも、愛・地球博の楽しみ方であると思いました。